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ロザリオ・ソナタ(同人誌「ロザリオ・ソナタ」掲載)

序章

 

「おい、悟空っ! いい加減に起きろっ!」

「……ん、さんぞ……あと、三十分……」

「今日は新学期だろーが、このうすら馬鹿っ!」

「……え? ……え―――っ!」

耳に届いた愛しい人の、これまた愛しい声が告げた過酷な現実に、悟空は頭まですっぽりと被っていたタオルケットからがばっと顔を出した。

「さんぞ、今何時っ?」

冷ややかな紫色の瞳で自分を見下ろす、白い端正な面。 今日も三蔵は綺麗だな、と己の置かれた状況を暫し忘れて、悟空はうっとりと恋人の顔を見つめる。しかし、そんな幸福な朝のひと時は長くは続かない。愛する人の肉厚な唇が紡いだ数字に、悟空は今度こそぱっちり目が覚めた。

「七時過ぎたところだ」

「ええっ? 始業式、九時からだよっ? ここから学校まで一時間半かかるのに。遅刻だよぉ」

大きな満月を思わせる金色の瞳を最大限に見開いて、サイドテーブルに置かれた目覚まし時計を両手で握り締めてきゃんきゃん鳴く。しかしそんな悟空に、三蔵はにべもない。

「一度鳴った目覚まし、寝惚けて止めたのは、てめーだろうが」

「でも、でも」

「早起きすんのがイヤなら、とっとと実家に帰るんだな」

吐き捨てるように言う三蔵に、悟空は一瞬の間もなく絶叫した。

「それは、ぜってー嫌だ―――っ! 嫌だ、嫌だ、嫌だ―――っ!」

ぐるる、と唸って反抗の意を示す悟空を前に、三蔵は深いため息をついた。

「だったら、これからは遅刻しねーように早く起きるんだな。もうじき七時半になるぞ」

「え? ……ぎゃ―――っ! マジ遅刻決定だ―――っ!」

雄たけびを上げ、転がるようにベッドから起きると、悟空はパジャマ姿のままハンガーに掛かった学ランと薄っぺらい学生鞄を抱えて部屋を飛び出した。 そして数秒後に、再びけたたましい悲鳴と共に、ずだだだっと階段を踏み外した音が家中に響き渡る。

悟空の部屋に残された三蔵は額に細い指を当てると、はぁ、と朝から疲れたようなため息を漏らした。 悟空が手にしたのは、昨日『面接用の写真を撮る為に』と暑苦しい思いをして着た冬服。その横には、やはり昨日クリーニングから引き取ってきたばかりの夏服が、ひっそりとハンガーに掛けてある。

今はまだ九月。夏服じゃねーのか?

と思う三蔵だが、寝坊をしてすっかり気が動転している悟空に、それを教えてやる程親切な人間ではなかった。

 

 

「今日は始業式とホームルームだけだから。昼過ぎには帰ってくるからな」

栗色の髪を寝クセでぴょこん、と立たせたままの悟空は、キッチンで立ったままトーストをもぐもぐと頬張りながら、リビングのソファに腰掛けて新聞に目を通す三蔵に声をかける。

「てめ、今度立ったままモノを食ったりしたら、ぶっ飛ばすぞ」

「わかった。今日だけね」

ぐびっと、三蔵とお揃いのマグカップに注がれたコーヒーを一気飲みすると、悟空はバタバタと玄関に走っていく。

「あっ、三蔵今日の予定はっ?」

玄関前で急ブレーキをかけて、くるっと方向転換し、再びリビングに戻ってくる悟空。

「あ? 今日は簡単な音合わせだけだから、夕方には戻る」

「ん、わかった。じゃ、行ってきまーす」

元気よくそう告げると悟空はいきなりしゃがみ込んで、新聞の活字を追い続ける三蔵の、白い頬にちゅっと音をたててキスをした。

「っ、てめっ! この猿っ!」

頬に濡れた感触を受けた三蔵は、ばっと新聞から顔を上げて、ぎんっと不埒な同居人を睨みつける……が、その頬も耳も真っ赤に染まって、そんな顔で「怒っています」と言われたところで、少しも怖くはない。

「えへへ、行ってきますのキス、いただき―――っ!」

そんな照れ屋で初々しい想い人の姿に、にこっと満足の笑みを浮かべると、今度こそ悟空はバタバタと煩い程の足音を響かせてリビングを飛び出していった。 あとに残ったのは、不意打ちをくらったまま、怒りの矛先に逃げられた三蔵ただひとり。

「ったく……騒々しいな」

ゴシゴシと、悟空がくちづけた頬を手の甲で拭くと、三蔵はぼそり、とひとりごちる。 これから毎日あの騒動に付き合うのか、と思うと今からうんざりする……が、それでもなぜか口元に薄い笑みが浮かんでくるのを、三蔵自身気づきはしなかった。

 

悟空の通う高校は、ふたりが住むマンションから電車で一時間半程かかる。

一学期までは電車で三十分程の実家から通っていたのだが、この春音大を卒業して某オーケストラの団員となった三蔵は、少しでも稽古場に近いようにと独立してこのマンションでひとり住まいを始めた。 これに猛然と反発し、大騒ぎをしたのが当時高校三年生になったばかりの悟空である。

実は三蔵も悟空も、共に同じ施設で育った身の上だ。 生まれてすぐに施設の前に捨てられた三蔵が五歳の時、まだ乳飲み子の悟空が施設に引き取られた。両親が事故で亡くなり、身寄りが全くいなかったからだ、と後で養父に聞かされた。 三蔵と悟空が養父・光明に引き取られたのは、三蔵が十歳・悟空が五歳の時の事だった。

温和でどこか飄々としたこの人物は、数年前に夫人を病気で亡くし、子供もなくひとり暮らしだった。当初は三蔵ひとりが引き取られる筈だったが、泣いて三蔵の後を慕う悟空の姿に胸打たれて「息子がふたりの方が、賑やかで楽しいですから」と悟空も併せて養子に迎えたのだった。 以来戸籍上兄弟となった三蔵と悟空は、養父を挟んで血の繋がらない男の三人所帯、それでも穏やかに幸せに時を刻んできたのだったが。

『ンな遠くに引っ越したら、三蔵に毎日会えなくなるじゃんっ!』

音大でバイオリンを専攻していた三蔵が就職を機に独立すると告げた時、悟空はハンガーストライキまで決行して、三蔵のひとり暮らしに大反対したのだった。

誰よりも愛しい年上の人。 悟空の記憶の中には、いつも三蔵がいる。 『太陽』のように眩しい姿と、不機嫌そうに、それでもちゃんと自分に対して差し伸べてくれる三蔵の白い綺麗な手。

大好きで、大好きで、気がつけばいつもその跡を、ちょこまかとついて廻ってた。 金色の髪も、紫暗の瞳も、真っ白い肌も。そして誰よりも、強くて脆いところも。 『三蔵』を構成する全てのものが、愛しくて。物心つく頃には、この気持ちが身近なお兄さんを慕う気持ちなんかじゃなくて恋心なんだと、しっかり自覚していた。

幼少の頃から大の子供嫌いで人嫌い、という屈折した性格の三蔵ではあったが、生まれたばかりの雛よろしく、自分の傍から決して離れないこの小猿のような少年を、どつきながら、蹴り飛ばしながら、それでも本気で突き放した事はなかった。

そんな三蔵に決死の想いで告白し、一時は『何頭湧いた事抜かしてんだよ』と鼻で笑われたものの、諦めるという文字を己の辞書に持たない悟空の猛烈アタックに押し切られた、という形でやっと長い初恋の片思いから抜け出したのは、三蔵が独立前言をするほんの一ヶ月程前の事だ。

なのに、全てがこれからという時に、家を出てしまうなんて……。

「ぜーったい、許さねぇ! 俺、三蔵から離れないかんな―――っ!」

息を切らせて辿り着いた最寄りの駅の改札で我知らず絶叫した、真夏なのに学ラン姿の悟空に向けられた人々の視線は、酷く冷たいものだったが。それを気にするような悟空でもなかった。

 

 

第一楽章

 

指揮者の腕がゆっくりと下りる。 一拍の間をおいて、団員達はふぅと疲れたため息を漏らした。

今日は定期演奏会の簡単な音合わせの筈だったのに、常任の指揮者が腹痛で寝込んだ、とかふざけた事を抜かして、至極評判の悪い自分の弟子を代理に遣して来た。

理屈ばかりが先行して矢理難い事この上ない。しかも口と実力が噛みあわないだけに、余計腹が立つ。自分の解釈ばかりを押し付けて、一楽章を弾き終えるまでに何回演奏を中断した事か。

『違うんだよ、僕の解釈はそうじゃなくて』

所詮てめーは、今日一日のピンチヒッターに過ぎないんだ。演奏会当日をてめーの解釈で弾く訳じゃあるめーし。大人しく棒振り人形に徹していやがれ。

マエストロ気取りでコンコンとタクトで楽譜台を叩く、自分より二、三歳年上らしい馬鹿者に、三蔵は何度心の中で悪態、罵詈雑言を吐いた事か。 こんな脳みそ空っぽの芸術家気取りのおかげで、夕方には家に帰れる筈がすでに時計は六時をまわっている。

「ちっ」

忌々しげに舌打ちをするが、それでも内心三蔵は、マンションに帰る時間が少しでも遅くなる事に安堵する。 そう、帰ればきっと、悟空が自分の事を待っている筈だから。

「おい、三蔵。帰らねぇのか?」

いきなりポン、と肩を叩かれ三蔵はぎくり、と身体を強張らせる。 三蔵は幼い頃から人嫌いな上に、酷い接触嫌悪だ。他人に触られると、マジに鳥肌が立ち悪寒がする。団員達もそんな三蔵の性癖を知っている上に、天にも届く程の高いプライドと尊大な性格に恐れをなして、迂闊に彼に近寄ったり、触れるようなマネはしてこないというのに。

どこの馬鹿だ、と紫暗の瞳に不機嫌さをいつもよりも倍増した、剣呑な眼差しを上げてみると。

「早く帰らねぇと、あの野郎がいつまでも、物欲しげにあんたの事見ているぜ」

「……朱泱か」

振り向いた視線の先にいたのは、三蔵の音大の先輩であり、今は同じオーケストラの団員でもある朱泱だった。 豪快で音楽家というよりは、武道家にでもなった方がよいのではないかと思える猛者振りだが、意外に細やかな神経の持ち主で、三蔵が気安く付き合う事のできる数少ない友人でもある。

「あの野郎、先日稽古場を覗いて以来、あんたの事舐めるように見てやがるからな」

「うぜぇ」

心底嫌そうな低い声音で、三蔵は吐き捨てるように呟いた。

知っている。この人並み外れて目立つ容姿が、不必要に男達の昏い欲望を煽り立てている事を。 実の両親は日本人ではないのか、と思える程にぬけるような白い肌と、紫暗の瞳。髪は常々悟空が『太陽みたいだ』と賞するのに相応しい程、キラキラと輝く眩しい金髪。 強靭で、それでいてしなやかな肢体。しかし決して柔な印象を与えないのは、その瞳の鋭い輝きと他人を寄せ付けようとしない雰囲気の所為か。

このアンバランスな美しさに魅了された男達の、征服欲をギラギラと感じさせる薄汚れた視線は、三蔵が物心ついた頃から付いてまわった馴染み深いものだ。 あの出来損ないの自称・芸術家も初めて顔を見たその日から、三蔵に粘着質な厭らしい視線を送っていた。それを肌で感じるだけでも、吐き気がする。

「ふん。芸術家気取りしてやがるクセに。顔で楽器を弾く訳じゃねーだろうが」

「まあ、そりゃそうだが。今はクラシック音楽家も、顔を売る時代だからな」

朱泱のいかにも三蔵をからかうような声音に、彼は眉間の皺を三割方増やし、無言でぎろり、と座ったままの自分を楽しそうに見下ろす男をねめつけた。

「おまえさんだって、声かかったんだろーが」

「うるせえ!」

朱泱の揶揄するような言葉に、かっとなった三蔵は、肩に置かれたままの朱泱の無骨な手をぱんっと払い落とした。

確かに最近は『美人ピアニスト』だ、『美人バイリ二スト』だという宣伝文句で、華々しく活躍している若手演奏家も多い。CDジャケットも華やかに奏者がポーズをとった物などが殆んどで、近年低迷しているクラシックCDの売上に大きく貢献しているらしい。 三蔵自身もその美貌故に、音大に在学中からCD発売やデビューの声がかかったが、それ等全てを『くだらねえ』の一言で蹴散らしていた。

別に顔を売り物にした演奏家が悪い、と頭ごなしに言うつもりはない。演奏技術が顔と釣り合う程度あれば、それでいいだろうし。正直日本の聴衆は、クラシックを敷居の高いものだと思い込んでいるフシもあるから、これをきっかけに興味も持てば、まあいいだろう。 だがその騒ぎに自分が巻き込まれる事だけは、絶対にゴメンだ。

「顔さえあれば、どーでもいいんだろーが」

「何言ってんだよ。『パガニーニ国際コンクール』バイオリン部門の入賞者が」

朱泱の口から飛び出た単語に、三蔵は心底嫌そうに眉を顰めた。

優勝者の出ない年もあるという極めて高レベルの、『パガニーニ国際コンクール』で三蔵が入賞したのは、彼が音大二年の時だった。大のコンクール嫌いの三蔵を、彼の才能に惚れ込んだ時の恩師が土下座までして拝み倒し、嫌々ながら出場させられたという曰く付きのコンクールであったが。

その卓抜した技術と情感、そして類い稀なるその美貌と、当時としては至上最年少の優勝者に、近年ない程にクラシック界が湧き上がった。 『美貌の天才バイオリ二スト誕生か?』と、当時マスコミまで騒々しく書きたて、ソロデビューやCD発売の話などが数限りなく舞い込んだが。

「おまえ、それ全部蹴って地道に音大卒業して、こんなしがないオーケストラの一バイオリニストやってんだもんな」

「ソロとかCDだとかリサイタルとか、うぜえんだよ。これ以上目立つ事は、したくねーんだよ」

「でもおまえの技術じゃ、オケの一団員としちゃ、浮いてんだろーが」

「……」

「コンマス(コンサート・マスター・第一バイオリンの主席奏者)よか、上手くて目立つその他大勢なんてな。かなり皮肉だぜ」

「うるせえ。目障りなら、今すぐ辞めてやる」

自分の演奏技術も然る事ながら、協調性に思い切り欠けている自分が、アンサンブルを重視するオーケストラの構成員としては無理がある事は、三蔵自身認めている。演奏の解釈を巡って指揮者と意見が真っ向からぶつかった時などは、しみじみ自分ひとりで演奏する方が楽だと思えてしまう。 だが、しかし……。

「これ以上、目立つのはごめんなんだよ」

三蔵にしては力無い、疲れたような呟きに、朱泱はある過去の出来事を思い浮べた。

「あれか? おまえが入賞した時、マスコミが騒ぎ立てた……」

三蔵は口元をへの字に曲げて、返事を返さない。しかしそれが肯定を示していると、朱泱も三蔵との決して短くはない付き合いの中で理解している。

三蔵が例のコンクールで入賞した時、日本のマスコミ―――主に三流週刊誌の類いが、やっきになって三蔵の周囲をうろつき回り、特ダネを求めて彼の過去を暴き立てた。

「確かあん時、悟空君がスポーツ特待が内定していた高校から、内定取り消しを言い渡されたんだよな?」

朱泱の記憶を手繰り寄せるような声に、三蔵は当時の事を思い出してぎゅっと肉厚の唇をきつく噛み締める。

「おまえさんと悟空君が施設育ちで、光明さんトコに養子に入ったって事は、まあ本当の事だけど。結構根も葉も無いいい加減な記事を、実しやかに書きたてられたからなぁ」

その頃中学生だった悟空は受験生で、スポーツ―――特に武道系の活発な私立高校に、スポーツ特待生としての内定が決まっていたのだが。 マスコミの無責任極まりない、事実無根の記事が一人歩きして騒ぎとなり、高校関係者の耳にも入ったという訳だ。

「『事実はどうであれ、そういう騒ぎのあった生徒を特待生として入学させる訳には』だとさ。ざけんじゃねえっ!」

小学生の頃から柔道の道場に通っていた悟空は、小さな身体から想像も出来ない程の力と、技、その俊敏さで日本の柔道界のホープと呼ばれていた。 今までにも多くの大会で優勝し、高校一年の時には、インターハイで稀な『一年生王者』として、その名を柔道界に知らしめた。 『末はオリンピックの金メダル』と周囲の期待も大きい。

それなのに、自分がマスコミの目を引いた為に、あんな騒ぎになって悟空の進路を潰す事になった。 今でもあの時の事を思うと、三蔵は腸の煮えくり返る思いがする。 当の悟空はけろりとした顔で「ンな事言う学校なんか、こっちからゴメンだよ。養父さんや三蔵の事まで、悪く言うんだぜっ!」と、むしろ顔には出さないが落胆している三蔵を、優しく慰める役目に回っていた。

「それからだよな。元々目立つ事が大嫌いなあんたが、輪をかけて人目に触れるのを嫌がるようになったのは」

だから卒業後の進路も、ソリストや留学の誘いを蹴って、オーケストラの一団員に決めた。 別に恩師の助手として残って後輩の育成にあたってもよかったのだが、三蔵自身他人に教えるのは不向きな性格なのと、敬愛する養父と、そして誰よりも悟空が「三蔵のバイオリンは凄いのに、他人に教えるだけで自分が弾かないのは、勿体無さ過ぎる!」と頑なに言い募った為に、こうして今もバイオリン奏者としての道を歩いている訳なのだが。

「別に、万人に聞いて欲しい訳じゃねえ」

「何だって?」

独り言のような三蔵の呟きは朱泱の耳には届かなかったが、三蔵はあえて繰り返したりはしない。

「それよか、てめーは帰らねえのか?」

ぐるり、と辺りを見回せば残る団員も数少ない。例の代理指揮者も、三蔵と朱泱が話し込んだのに痺れを切らせて帰ってしまったようだ。

「今日は嫁さん、同窓会で遅くなるんだと。誰も待ってねえ家に帰っても、寂しいしなぁ」

去年七つ年下の可愛い花嫁を迎えた朱泱は、知る人ぞ知る愛妻家だ。普段は団員同士の付き合いもそこそこ、仕事が終わると愛しい嫁さんの待つ我が家へと、その無精ひげの親父面を脂下げていそいそと帰っていくが。本日彼のハニーは、午前様の予定だそうだ。

「おまえの方はいいのか? 昨日から悟空君が、おまえのマンションに移ってきたんだろぉが」

あえて自分の頭の中から追い出そうとしていた事実に触れられて、三蔵はちっと、小さく舌打ちすると、手にしたままのバイオリンを持ち上げて左顎の下に構える。

「ガキじゃねーんだ。ひとりでメシくらい食っているだろう」

そう言うと朱泱に言葉を返す隙を与えず、三蔵は徐ろに右手に持った弓を、弦の上に走らせた。

哀愁を帯びた旋律が、人も疎らなレッスン室に響き渡る。 むせび泣くようなその響きと、切ないまでの優しさを感じさせるその音色は、三蔵が持ち合わせる、冷たく他人を寄せ付けようとしない雰囲気からは想像もできないものだ。

「ビーバーの『ロザリオ・ソナタ』か。おまえさんの十八番だな」

残った団員も手を止めて、息を詰めてその音色に聞き入っている。 それはこれから迎える秋の夕暮れを思い起こさせる、そんな憂いを帯びた甘い音色だった。

 

「……悟空」

ダイニングテーブルに顔を埋めたまま、悟空はすっかり寝入っていた。 テーブルには、慣れないキッチンで悟空が作ったらしい夕食が一人分、布を掛けたまま用意してあった。

もう時計はとっくに零時を回っている。まだまだお子様体質の悟空が起きていられる時間は、とうに過ぎてしまったようだ。三蔵の帰宅を待ったまま睡魔に勝てずに寝込んでしまったのだろう。 室内はクーラーが効いて、適温に冷やされていた。この部屋の住人が、温度や湿度の変化に弱いバイオリンを扱う関係上、一般家庭よりは常に快適な温度環境が保たれている。

結局あの後三蔵は珍しく朱泱を連れてバーで呑んでいた為に、帰りが午前様となってしまった。 理由はただひとつ。ふたりだけのこの部屋で、悟空と顔を合わせる勇気がなかったから。 悟空に抱かれる心構えが、まだ出来ていなかったから。

悟空の告白を受け入れてから三蔵は、一月程を実家で過ごしこのマンションに移った。三蔵の身辺が慌しいという事と、実家には養父がいる、という理由から三蔵は悟空に抱かれる事を頑なに拒み、悟空も不本意ながらも三蔵の意志を大切にし、無理矢理彼を襲う事はしなかった。

しかし三蔵が一人暮らしを始めた後は、土日が休みのサラリーマンではない三蔵と、学生の悟空のスケジュール的なすれ違いが続き、やっと悟空が夏休みを迎えてみても、悟空は最後のインターハイで身動きが取れず、三蔵も八月いっぱい演奏旅行で不在だという。 四ヶ月近くに渡るすれ違いに、とうとうキレた悟空が『二学期からは、俺三蔵のマンションで暮らすっ!』と爆弾宣言をかましたのだった。

『何寝惚けた事言ってやがる。てめー今年は高三なんだぞっ! 今更転校なんか出来る訳ねーだろうが!』

『転校はしねーよ。三蔵のマンションから通うもん』

『ここから通うよか、三倍も時間がかかるんだぞ。今年受験生が何ざけた事をぬかしてやがる。大体寝汚いてめーが、二時間近く早起きして通学出来るかってんだ!』

『起きるもん! ちゃんと通うもん! 受験べんきょーだって、ちゃんとやるもんっ!』

『言うだけなら誰でも出来るんだよっ!』

『言うだけじゃねえよっ!』

『ふん、どうだかな。大体てめーがこの家出たら、養父さんが独りになっちまうだろうが』

『あ……』

痛い所を突かれて悟空は大きく目を見開き、そしてきゅーんと項垂れた。

養父・光明。

誰よりも優しくて、温かくて、飄々として。大好きな大好きな、育ての父。 幼い自分が三蔵と離れ離れにならないようにと、一緒に引き取り愛情を込めて育ててくれた人。人を人とも思わぬ三蔵も、この一風変ったおっとりのんびりの養父をとても敬愛し、大切にしていた。

三蔵が家を出てからの養父と悟空のふたり暮らしは、いつもどこか寂しくて。 『家族』がひとり欠けただけでも、こんなにも家が、がらーんと広く感じてしまうのだろうか、と。そう先日も光明と話していたばかりだというのに。 自分が三蔵の後を追って家を出たら、養父はこの家で本当にひとりぼっちで暮らす事になるのだ。

流石の悟空もそれを思うと、自分のワガママを突き通す事に躊躇いを覚えてくる。 そんな三蔵と悟空の問答に決着をつけたのは、他でもない光明その人であった。

『いいじゃないですか。悟空は三蔵と会う機会が減ってしまって寂しいんですよ。三蔵のマンションも、悟空ひとりが増えても大丈夫なだけの広さがあるでしょう』

『養父さん、そういう問題じゃ……』

『子供はいつかは独立して家を出るんだし。まあ少し学校が遠くなりますけど、あと半年ですしね。どうにかなりますよ』 『養父さん……』

にこにこと無敵の笑顔でのたまう養父に、三蔵は反撃する事も出来ない。三蔵が唯一この世で逆らう事の出来ない存在、それが光明なのだ。彼の笑顔と全身からは、どこか否と言うに言えない不思議な雰囲気が漂っている。

『でも一週間に最低一回は、電話を下さいね。それから、三蔵が演奏旅行で長い間マンションを空ける時には、こっちに里帰りしてください。いいですか、悟空?』

くるり、と光明は可愛い次男坊を振り向き、柔らかい笑みをその目元に浮べた。

『と……』

『うん、うん! 約束するよっ! 毎日電話するっ! 三蔵の様子、養父さんに知らせなくちゃいけねーしな。ありがと、養父さんっ!』

小柄な悟空はぴょんっ、と飛び上がって、優しく物分りのよい養父の首にぎゅっと抱きつく。

『おいっ!』

悟空重いですよ。とのん気に笑う養父と、嬉しそうにへらへら笑う、戸籍上は『弟』の出来の悪い馬鹿猿。 画して三蔵の意志とは関係なく悟空との同居が決定し、悟空は三蔵が演奏旅行から帰った翌日、つまり夏休みの最終日に、はちきれんばかりの笑顔を浮かべて引っ越してきたのだったが。   

                                                                     

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