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まだ若い悟空が、想いが通じ合った恋人をすぐにでも抱きたい、と思っても何の不思議もないだろう。 三蔵自身、そのテの欲望は極めて薄く実感は伴わないが、知識の上ではそういった欲望も理解できる。事実面と向かって悟空に告白される以前から、三蔵は悟空の目に自分に対する欲望の色を感じとっていた。 でも不思議とそれは不快ではなかった。普段は人との接触を極端に嫌い、他人の手が己の身体に触れると虫唾が走る程の、接触嫌悪・人間嫌いの自分が。
幼い頃から付き纏っていたせいか、悟空に触れられる事に関してだけは昔から平気だった。むしろ悟空の小さな手のぬくもりが、擦り寄ってくる子供の高い体温が、心地良いとさえ思ってしまう程。 それが性的な色合いを帯びるようになってからも、相変わらず嫌悪を感じる事はなかった。
初めて悟空にキスをされたのは、自分が高校二年の頃だろうか? 当時悟空も小学六年生。兄弟でキスをする年でもあるまい。そして触れ合う柔らかい唇を通して、悟空が自分を求める気持ちが痛い程伝わってきた。 あの時だろうか? 悟空の想いを、そして自分の想いを自覚したのは。
あの時の悟空の唇の感触が甦り、三蔵は自分の唇をそっと指でなぞる。 まだ子供らしい、どこかぷにぷにとした柔らかい唇。 その唇が自分に想いを告げてきたのは、それから五年経ってから。
何とか猿の戯言で終わらせようとしたのに。諦めを知らぬ悟空の猛烈アタックと……何よりも自分を見つめるあの熱く、そして包み込むように優しい眼差しに抗いきれず悟空の想いを受け入れてしまった。 それが間違いの元だったと、三蔵は今でも後悔している。
悟空が嫌いだから、とか同性だから、という訳ではない。 むしろ悟空に惹かれている、自分自身の感情が怖いからだ。 赤ん坊の頃から、ちょこまかと自分の後を慕い付き纏った悟空。鬱陶しい、騒がしい、と思いながらも、自分に向けられた小さな手を拒む事が出来なかった。 光明の養子となり、戸籍上は悟空と兄弟になってからも、三蔵は悟空を弟として見る事が出来なかった。
じゃあ、悟空とは自分にとって何なのか? 傍にいると煩いが、居ないと訳もなく苛つく。 悟空のぬくもりがあると安心できて、いつも何かが欠けていると思えて仕方のなかった、自分の内面が満たされていく気がする。強いて言うならば『己の半身』と言ったところだろうか? 気障で陳腐な表現かもしれないが。
けれども、悟空の気持ちは?
抱かれたら、もう昔には戻れない。 心も身体も、ふたりの関係は養父のもとで暮らした、あの頃に戻る事などできはしない。 でも悟空がいつか気づいたら。 自分との関係が、いつか悟空の将来のつまずきの石になるかもしれないという事に。 柔道界のホープが、未来のオリンピックの金メダル候補が。同性の、しかも戸籍上だけで血の繋がりはないとはいえ『兄』の三蔵を恋人にしている、と知られたら。
悟空の選手生命はどうなるのだろう? そしていつか三蔵への想いは、単なる刷り込みでしかないかもしれないと。生まれたばかりの雛が初めて見たものを親だと思うように、幼い頃から慕っていた自分への気持ちを恋愛感情だと誤解していただけだと。そう思うようになってしまったら……?
夕べは三蔵も帰ってきたばかりで疲れているし、悟空も明日から新学期だ、と言って拒む事ができたが。いつまでも交わし続ける事は出来ないだろう。 いつかはぶつかり合う日が来るかもしれない。 その時、そしてそれから後、自分達の関係はどう変っていくのだろうか?
疲れの滲んだため息をひとつ吐くと、三蔵はそっと屈み込んで、今だテーブルに突っ伏したままの姿で眠る悟空の柔らかな髪をそっと撫でると、そのまま小さく彼の頬にくちづけた。
第ニ楽章
今まで放課後といえば、部活に明け暮れ大忙しだった。 しかし高校三年の二学期にもなると、受験生として引退を余儀なくされ、悟空としては暇を持て余してしまう。 いや、この時期暇を持て余す受験生、というのも問題有りではないだろうか? もしここに三蔵がいたら『一分一秒でも時を惜しんで単語帳でも開け』と、丸めたスコアで、すぱんっと悟空の頭を横殴りするだろうが。
悟空は早々と予備校へと向かうクラスメイトを余所に、窓際の自席についたまま机に肘をつき、手のひらの上にちょこん、と顎を乗せたポーズでぼんやりと視線を宙に向ける。
三蔵のマンションに引っ越す際に『受験べんきょーも、ちゃんとやるもん!』と大見得を切った悟空ではあるが、正直勉強は大がつく程嫌いだ。正直大学進学も、気が進まない。進路指導の教師達は、スポーツ特待生で柔道の盛んな大学へ、とこっちの意向も聞かずに話を進めているが、悟空は過去の体験から特待生になる気は更々ない。
別にあの一件で自分自身が傷ついた訳でもない。 幸か不幸かそこまでデリケートな神経を持ち合わせてはいなかったし、むしろ自分がマスコミに騒がれたせいで悟空の推薦が取り消しになったと、口にも顔にも出しはしなかったが、内心酷くその事に苦しんでいた三蔵をみているのが辛くて。そんな学校、こっちからお断りだと思った。
元々大学受験に乗り気でない悟空が、今現在『進学組』と教師達に認識されているのは、実は過去の二者面談の際、実家を出た三蔵とのすれ違いで頭がそっちの方に気をとられ、進学を勧める進路指導の教師の話を半分以上、上の空で聞いていたという、何ともふざけた理由からなのだが。
「いっその事、就職にしよーかなぁ」
この就職難のご時世ではあるが、柔道の盛んな企業からも幾つか声がかかっている。外見の幼さからどうも『社会人』というイメージが湧かないのだろうか? 不思議と教師達も、悟空に就職の道を勧めない。
「でも俺の実力で入れる大学なんてねーし、今更勉強も嫌だしなぁ」
就職した方が給料も貰えて、養父に少しでも恩返しができる。三蔵もオーケストラの団員になってから、少しの金額ではあるが毎月実家に送金している。
「それに早く社会人になった方が、三蔵も俺の事大人って認めてくれるかもしんねーし」
そこまで考えて悟空は机に突っ伏すと、はぁ、と情けないため息をついた。雲ひとつない爽やかな秋空が、なんとなく物悲しく見えてくる。
三蔵のマンションに移って、早二週間。しかし三蔵との時間が全くといっていい程、持つ事が出来ない。 演奏会間近でもない限り、自分が実家にいた頃は、夕食時には三蔵はいつもマンションに帰宅していた筈だ。電話をすれば、不機嫌そうな声でちゃんと応えてくれたから。
それなのに自分と同居するようになってからは、『仕事だ』の一言で夜遅くに帰宅する事が殆んど。たまに早く帰ってきた日や折角の休日も、『疲れた』と言って部屋に篭って顔も見せてくれない。
「そりゃ夕飯は一緒に食えなくても、一応朝飯は一緒に食ってくれるし。夜もこっそり寝顔見に行っちゃうけど」
三蔵が聞いたら、即座に自分の寝室に鍵をつけるであろう事を、悟空は誰に言うともなく少し寂しげに呟く。
離れて暮らしていた四ヶ月を思えば、深夜隣りの部屋に三蔵の気配を感じる事が出来るだけでも。朝の慌しい僅かな時間だけでも、愛しい人の顔を見る事が出来るだけで、それは充分に、無理矢理にでも同居した甲斐がある、というものなのだが。それにしても……。
「なんか俺、三蔵に避けられているような気がすんのは、気のせいなのかなぁ」
自分の口から零れ出た言葉に、悟空は堪らない程の悲しみを覚えてきゅーん、と見えない耳と尻尾を垂らす。
何か三蔵の気に障る事をしたのだろうか? 勉強しないから、怒っているんだろうか? それとも養父と共謀して、三蔵の意見を無視した形でマンションに押しかけてきたのを、怒っているのだろうか?
「でも恋人同士なんだから……一緒に暮らしても、いいじゃねーか」
三蔵に自分の想いを受け入れてもらって、晴れて恋人同士になったというのに。 ふたりの間は全く進展していない。むしろ三蔵が以前よりも、どこか余所余所しくなったと感じるのは気のせいなのだろうか?
三蔵は照れ屋だから、きっと恥ずかしがっているのだと。そう思っていたけれど。 告白も、同居も、悟空の押しの一手の結果のようなものだから。だから今度は三蔵の気持ちを尊重して、逸る気持ちを抑えて無理矢理三蔵を抱いたりはしないで、三蔵がいいと言ってくれるのを待つつもりでいるのに。
「なんか、もしかして俺の一人相撲……なのかな?」
能天気が売り物の自分だけど、三蔵の事となるとどこまでも自信がない。ちょっとでもあの輝きが見えなくなると、少しでも自分に差し伸べられた手が遠ざかると。三蔵に捨てられるのではないか、という恐怖心が悟空の心を苛む。 それは幼い日から、ずっとそうだった。今もこうして三蔵とすれ違いの日が続くと、三蔵は本当は自分の事など何とも想っていなくて、煩い『弟』を黙らせる為の『茶番』に付き合っているだけなのではないのかと。それが現実のように、思えてきて……。
「悟空! なにやってんだよっ?」
「なっ!」
物思いに沈んでいた悟空は、予告なしにいきなり背中をばんっ、と叩かれて心臓が飛び出す程驚いた。柔な心臓の持ち主ならば、今のショックで心臓停止ではないか? いや例え心臓は無事でも、容赦ないパンチに背中にはくっきりと手の形をした、青痣が残っているに違いない。
「いつまでそうやって、ぼーっとしてんだよ? やる事ないならオイラと一緒に帰ろうぜ」
「李厘……」
悟空は振り返らずに馴染み深い声と、パンチの主の名をため息と共に口から吐き出した。
「もう四時半だぜ? 今日は道場寄らないのか? 今夜もひとりなら、家で夕飯一緒に食べようよ? おにいちゃんも悟空と手合わせしたいって、待ってるしさ」
「紅孩児が?」
悟空は首を反らすようにして、上から自分の顔を覗き込む李厘の顔を見上げる。そうして見ると、李厘の年よりも幼げな顔が逆さに見えて何となく笑える。
李厘は悟空が子供の頃から通う道場の娘だ。 悟空と同じ年で、やはり小柄で童顔の彼女は『女悟空』と密かに囁かれているが、その愛称は伊達ではなく、女子柔道の中ではかなり名の知れたつわものだ。
その兄・紅孩児も道場の跡取りに相応しい技と力の持ち主で、幼少の頃から悟空をライバルと見なしている。素顔は妹思いで、仲間の面倒見もよい好青年だ。
「おにいちゃん、インターハイで悟空に一度も勝てなかったの、今でも悔しがってて、『技と魂を鍛え、いつか必ず勝ってみせる』とか、息巻いてんの」
「あー、あれなぁ」
この三年間のインターハイ。個人・重量級で紅孩児は優勝を巡って悟空と対戦し、一度も勝利を得る事が出来なかった。 特に昨年は、優勝したら三蔵が一晩添い寝をしてくれる、と約束してくれた。まあ、三蔵にしてみれば『約束した』というより『約束させられた』と言った方が、正しいのだろうが。 とにかく小六の夏に三蔵にキスして以来、がんとしてお許しの出なかった添い寝のチャンスに、悟空はメラメラと燃えたのだった。
『闘志を燃やすトコが違うだろーが!』と宿敵・紅孩児にも散々罵られたが、そんなの知った事ではない。神聖な試合を賭け事に使うとは何事かっ! というライバルの声も、右から左に抜けてしまった。 画してインターハイ至上例を見ない程のスピードで、呆気なく紅孩児を倒した悟空は、見事三蔵との夢の添い寝を手に入れたのであった。
そして『最後のインターハイ! 今年こそは!』と意気込んで勝負に臨んだ今年の紅孩児は、不運にも三蔵とのすれ違いで、ストレスがピークに達していた悟空の八つ当たりの対象として、又してもいとも軽々と投げ飛ばされてしまったのだ。 『柔道こそ、わが生涯』と、命を燃やしている彼にしてみれば、三蔵の言動にふらふらと左右されるような悟空の柔道に対する姿勢が許せない。そして、そんな悟空に負ける己がもっと許せないっ、と日夜精進に明け暮れているらしいが。
正直、悟空にはまったく関係ないし、どーでもいい事だ。悟空にとっての関心事はただひとつ。
「悟空、三蔵の事大好きだもんな」
「あったり前じゃん。三蔵は俺の『太陽』だもん」
「オイラだって、三蔵の事好きなのにぃ」
「ダメったら、ダメ! 三蔵はぜってー、誰にも渡さないからなっ!」
ぷぅ、と口を尖らせる李厘を、ぶわっと見えない毛を立てて威嚇する悟空。どう見ても小学生の口喧嘩だ。こうして幼馴染みのふたりは、ことある事に三蔵を巡って睨みを利かせ合う。尤も李厘にしてみれば、大好きな遊び相手の三蔵を、悟空と取り合っている気分に過ぎないのだが。
「あ、そうだ。悟空これ見た?」
ぐるる、と唸る悟空を余所に、もう頭は次の楽しみに行ってしまった李厘が、鞄の中からごそごそと何かを取り出す。
「なに? 雑誌?」
「うん。ほら、コレ!」
「これ……クラシックの音楽雑誌?」
李厘が手にしたのは、図書館の雑誌コーナーで何度か読んだクラシックの専門雑誌だ。燕尾服を身に纏った外国人がタクトを振り上げている表紙のそれを、李厘は目当てのページを探してパラパラと捲る。
「悟空、まだ見てないのか?」
「うん。三蔵が雑誌の類い、嫌うから」
「あ……、そうか」
数年前三蔵と悟空を巻き込んだマスコミの騒ぎは、李厘もよく覚えている。 あれ以来三蔵は大のマスコミ嫌いとなり、自身が記事になるなど、もっての外。雑誌等も毛嫌いしている。辛うじて目を通すのは、新聞くらいか。
「じゃあ、これ三蔵も知らないよなぁ」
と言いながら、李厘が示したページには。
「えっ? これ、三蔵?」
「うん、オイラも何気に見てびっくり」
そこには演奏中の三蔵の小さなカラー写真と共に『天から与えられた美貌と才能・幻の天才バイオリニスト』とタイトルのついた記事が、ページの半分を占領している。
「え、だって三蔵、インタビューとかぜってー受けなくて」
「うん。だからコレ、何とかっていう外国の偉い音楽家が、昔三蔵がコンクールに出た時の演奏の事とかを書いて、もっとソロとして活動して欲しいって言ってんだ」
掲載された記事は確かに李厘の言う通り、外国の高名な指揮者が以前聞いた三蔵の演奏を絶賛し、このまま一オーケストラ団員として終わらせるのは惜しい。何故彼は活動の場を広げないのか? と言ったような内容のものだった。 添えられた写真も演奏会での物らしく、しかしこれで肖像権をどうの、と言えるのかイマイチ悟空にもわからない。
「でもやっぱ三蔵って、大勢の中にいても目立つよなぁ」
李厘が感心したように声を上げて、小さな写真に見入る。確かに三蔵にピントを合わせて撮っているとはいえ、辛うじて顔が識別できる程度の写真の上に、周囲には他の団員も数多く写っている。しかしその中でも、まるで三蔵だけがひとり特殊加工でもされたかのように、眩しい程の輝きを放っている。
「おにーちゃんも言ってたけど、三蔵には『天性の華』ってのがあるって」
「紅孩児が?」
柔道しか頭にない野暮な男、と思われがちだが。実は意外とこの紅孩児という男、繊細で夢見がちな性格の持ち主であったりする。
「うん。えーと、何て言ってたかな。『大勢の中に三蔵が混じると、白黒の空間がそこだけカラーに見えてくる』みたいな」 「……わかる気がする」
悟空は紅孩児の三蔵に対する印象に、素直にこくりと頷いて賛同した。 そこにいるだけで魂を奪われてしまうような、強烈なオーラ。スター性とでも言うのだろうか。 その上あの才能だ。活動の幅を自ら狭めるような三蔵の態度を、音楽界が惜しむのも無理はない。悟空自身そう思う事がある。
「三蔵って、もうひとりで演奏とか、する気ないのか?」
「うん。めんどくせーし、ソロ活動とかしてこれ以上目立つのは、真っ平だって」
でもたまになら、いーんじゃないかと思うのだが。しかしそんな悟空の心の声が聞こえる筈もない李厘は、妙に納得したような顔をすると、両腕を頭の後ろに組んで「うーん」と背筋を反らした。
「そっかー。たしかにまた変なマスコミに目ぇ付けられて、ヘンな記事書かれて『スキャンダルだ』とか言われたら、三蔵ぶち切れるだろーしなぁ」
「スキャンダル?」
思いもしない一言に、悟空は金色の瞳を大きく見開いた。
「だって前の騒ぎン時は悟空そう言われて、高校の内定取り消しになったじゃん」
「うん」
自分自身あんまり気にもしなかったけど、三蔵がとても気に病んでいたあの一件。 あの時は、マスコミは何故か自分にターゲットを絞っていた。『天才バイオリニストの弟は、幼少の頃から乱暴で、近所の子供に全治一ヶ月の大怪我を負わせたらしい』とか、『万引きの常習犯だったらしい』など、どこをどう調べたらそんな話が出てくるのだ? と関係者は揃って首を傾げた程だった。
子供の喧嘩で悟空が相手にちょっとした怪我を負わせただけなのに、尾ひれ背ひれ、胸びれに尾っぽまで付いてしまったり。たまたま悟空のクラスメイトが集団万引きをして補導された、というのを、ちゃんとした裏もとらず『その中に悟空もいたらしい』と憶測だけで記事にされたのが現実なのだが。
全てのマスコミ関係者がそうだとは言わない。だがそれ以来光明一家と、彼等と親交を持つ人々の間ではマスコミ不信の根が相当深い。
「だからさ、また騒動になったら悟空に火の粉が飛ぶんじゃないかって。三蔵はそれを気にしてんじゃないかって。おにーちゃんがさ」
「え?」
どきっと、悟空の心臓が耳障りな程、大きな音をたてる。
「お、れ……?」
「進路の事もそうだけどさ。二年後はオリンピックだよ。そんな時また騒動起きたら、悟空オリンピックに出れなくなっちゃうかもしれないじゃん」
李厘の思いもしない発言に、悟空は一瞬本当に息が止まった。彼女の言葉は、それ程の衝撃を悟空に与えたのだった。 俺のせいで……? 俺の為に三蔵目立たないようにって、ソロ活動とかしねーの?
血液が逆流しているのだろうか。ガンガンと頭の中で大きな音がする。急激に血圧が上がった時って、こんな感じなんだろうか、と現実逃避のように悟空はぼんやり考える。 頭に血が上るのと引き換えに、指先がやけに冷たく感じる。わなわなと震える唇を、悟空はぎゅっと血が滲みそうな程強く噛みしめた。
しかしそんな悟空の変化に気づかないのか、李厘は再び開いた雑誌のページに視線を落として話し続ける。
「それにただでさえ、三蔵って綺麗で男の人に纏わりつかれているじゃん」
「え?」
たて続けに李厘の口から溢れ出る言葉に、悟空はついていけない。大きな目をぱちぱちとしながら、この幼馴染みの少女を仰ぎ見る。
「なんかそれで前の騒動ン時にも、実は三蔵に男の恋人がいるんじゃないかって、噂されたんだって」
「何っ? 俺、ンな事聞いてねーよ?」
聞き捨てならない話の内容に、悟空は牙を剥いて李厘に詰め寄った。しかし彼女はそんな悟空に怯える風でもなく、さらりと言った。
「だったら三蔵と光明さんが、悟空の耳に入れないようにしてたんじゃないのか?」
確かにまだ中学生の多感な年頃の悟空に聞かせるには、躊躇う内容の中傷だ。だが……。謂れのない中傷を受けた三蔵の心中を思うと同時に、ふっと悟空の中に小さな不安が芽生える。
「男の恋人って、やっぱマズイのかな?」
「え?」
「だから、三蔵に男の恋人がいたら、マズイのかなって」
さっきの勢いはどこに行ったのか。もそもそと歯切れも悪く口ごもる悟空を不思議そうに見下ろしながら、李厘はぴょん、と立てた人差し指を自分の顎に当てて考えるポーズをとる。
「んー、オイラにはよくわかんないけど。でもやっぱり、世間とかは結構煩いんじゃないのかな?」
今の日本社会のモラルでは、同性の恋人というものは認められていない。それは確かに悟空も知っている。 だが三蔵に対して『同性』とか、『男同士』などと言った事を、改めて考えてみた事など一度もなかった。
三蔵は『三蔵』。だから。男だとか女だとか関係ない、悟空の何ものにも換え難い程大切で愛しい存在だったから。
でもそう言えば、いつだったか三蔵も言っていた。伝統を重んじる世界、というのは殊更スキャンダルには厳しい。まして閉鎖的な日本のクラシック界なら尚更だ。 確かに私生活に問題がありながらも、名声を得ている演奏家もいるにはいるが。それは本当に「今更私生活など、問題にならんだろう」と言えるような大スター達なのだと。 幾ら才能あるバイオリストとはいえ、三蔵はクラシック界ではまだ駆け出しだ。ちょっとした根も葉もない噂が、三蔵の演奏家としての立場を危うくしないとは言い切れない。
(もし俺との関係がバレたら……)
今現在はいくら口では恋人同士、とは言っても、まだまだキス止まりのふたりではあるが。でも……。
と、そこまで考えた瞬間、悟空の脳裏に考えたくない、嫌なひとつの憶測がさっと過ぎった。
(もしかして、三蔵がここんとこ、ずっと俺の事避けているのは……)
否定したい考えが、悟空の中でむくむくと育っていく。ここ数日の三蔵の様子も、そうだと考えれば納得がいく。でも……。 「悟空?」
いきなり黙り込んだ悟空の顔を、李厘が不思議そうに覗き込む。椅子に座ったまま俯いた悟空の顔はまるで病人のように青褪め、視線はただ一点を凝視して李厘の声に応える事はなかった。
つづく
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