グロリア
「さんぞー、花見に行こうぜ!」
6日振りに愛する飼い主の許に帰ってきた小猿は、三蔵の私室に飛び込むと開口一番そう叫んだ。
潅仏会を間近に控えて、三蔵と悟空の暮らす寺院はてんやわんやの大騒ぎだった。ついこの間涅槃会が終わったばかりだというのに、何と坊主の一年の早い事か。
日頃その生活態度を省みて「こいつのどこが坊主なんだ!」と叫ばずにはいられない鬼畜生臭の玄奘三蔵も、公務からだけは逃れる事は出来ない。またしても労働基準法を無視した過酷なスケジュールを強いられ、とてもではないがペットの世話までしていられないのが実情だ。
という事で、最愛の飼い主に泣き縋り、「さんぞーの傍から離れたくねえよ~」と駄々をこねる小猿は無残にも愛する三蔵様に蹴り飛ばされ、「潅仏会が終わるまで、ぜってー帰ってくんじゃねぇ!」との厳命が下ってしまった。
玄奘三蔵法師の声は、天の声。悟空がわずかなお泊りセットを手に寺院を放り出され、すごすごと悟浄宅に赴いたのは、潅仏会の5日前の事だった。
一体エロ河童達に何を吹き込まれたのだろう。
三蔵はへらへらと目の前で笑うペットの顔をぼんやりと眺めながら考える。花より団子。脳みそが軽量過ぎて食べ物の事で頭がいっぱい。とても風流を解するだけのスペースが空いているとは思えないこの猿が、何でいきなり花見なんぞ・・・。そう考えている内にひとつの結論に達した。「・・・おい、猿」
「なに、さんぞー」
「露店の買い食いは、却下だ」
「・・・へ?」
「だいたい俺が人ごみが嫌ぇな事は、知ってんだろうが。あんな、花を見に行くのか、人を見に行くのか判らんモンはごめんだ」
眉間にいつもよりも多くの皺を刻み突き放すような口調で言う三蔵に、悟空はわたわたと慌てふためきながら冷たい飼い主の法衣の袖を握り締める。
「ちょ、ちょっと待ってよ、さんぞー。言ってる意味が判んねえよ」
「だから、てめえは花見先に出る屋台や、宴会で飲み食いすんのが目的なんだろうが」
三蔵が想像しているのは、桜の木の下で場所取りして、宴会・カラオケ、のあの花見である。悟空はひしっと三蔵にしがみつくと、真剣そのものの顔で飼い主に切々と訴えた。
「ちがうよっ! ほんとに花見だよ! 寺院の裏手に大きな桜の木があんだろ。今花盛りなんだよ。あそこなら人もこないし、さんぞーもあそこの桜はいいって言ってたじゃん!」
三蔵のきつい紫暗の瞳が、縋り付いて半泣きで訴える小猿を胡散臭そうに見下ろす。
「・・・俺、大人しく潅仏会終わんの悟浄の家で待ってたぞ。さんぞーの仕事の邪魔しなかっただろ? だからさ、さんぞーの休みの時くらい一緒にいてえよ。・・・ダメか?」
おずおずと自分を見上げる小猿の、見えない尻尾と耳をしょぼんと垂れている姿に、三蔵は小さくため息をつく。そう言えば数日前の悟空の誕生日も、忙しさに紛れて祝ってやる事もできなかった。埋め合わせではないが、たまには悟空の我が侭にも付き合ってやるか・・・。
どこまで自分はこの猿に甘いのかと心の中で舌打ちしながらも、三蔵はぱふんと、悟空の頭に手を乗せる。
「さんぞー?」
「花見弁当は、無しだぞ」
ぽかんと、間抜け面で三蔵を見上げていた悟空は、やがてそれが三蔵の「花見承諾」の言葉と理解してにぱぁと満面の笑みを、その年齢よりも幼げな顔に浮かべた。
「うんっ! 俺、さんぞーと一緒にいられるだけで充分だよ!」
「ふん、どうだかな」
三蔵は面白くなさそうに悟空の額をぴんと指で弾くと、痛みに「う~」と唸っておデコを両手で抑える小猿を無視して卓上に置かれたマルボロに手を伸ばした。三蔵と悟空が滞在する寺院の裏手には、樹齢数百年を誇る見事な桜の大木がある。
その壮麗で優美な様は、観光資源としても充分価値がありそうだが神聖な寺院内という事を理由に、一般の人間が目にする事は殆ど叶わない。寺に住む者でさえ、敷地内とはいえいささか歩く距離にあるこの老木をわざわざ勤めの合間に愛でにこようという者もいない。
だが悟空はこの寺院で初めて迎えた春に見た、この桜の美しさにすっかり虜になってしまった。ほんのりと紅に染まった白い花びらが、風が吹くと一斉に舞い上がって悟空の身体を包み込む。どこまでも柔らかく、そして凄艶な幻想の世界―――。
「さんぞーを口説くんなら、ぜってーあの場所だっ!」
ガキだ、ガキだと三蔵に言われながらも、それでも心は大人の第一歩を踏み出したつもりの小猿は、この数日の間練りに練った計画を、自分が、そして三蔵も気に入っているであろうあの美しい場所で決行する事にふつふつと意欲を燃やしていた。
そう、悟空の計画。それは、あの『三蔵を口説く』事である。
悟浄の家に泊まった2日目。ふとしたはずみに悟空は、悟浄が八戒を口説いている場面に遭遇してしまった。
『やっぱ、八戒の肌に勝るモンはねえよなぁ。スベスベじゃん』
『誰にでも、同じような事言ってるんでしょ』
『なーに? そんな可愛くない言葉は、八戒の口には似合わないって』
『だったら、どんな言葉が僕の口には似合うんですか?』
『決まってんじゃん、俺への愛の言葉と睦言さ』
歯がぷかぷかと浮きそうな言葉を次から次へと吐き出すエロ河童に、悟空は呆れ顔で2人のいちゃいちゃ振りを覗いていたが、よく見ると、八戒も軽く悟浄をかわしながらも満更ではない様子だ。
八戒はあんな事を言われて嬉しいんだろうか。幸せな気分になるんだろうか?
その時の八戒のいつもと変わらぬ笑顔の下にある、甘酸っぱい喜びのようなものをおぼろげながら感じ取った悟空は、翌日悟浄の居ない隙を見計らって八戒に訊ねてみた。
「八戒、悟浄にあんな事言われて嬉しいのか?」
まさか悟空に自分達のバカップル振りを見られていたとは思いもしなかった八戒は、一瞬言葉に詰まったが、それでも悟空がひやかしではなく純粋な疑問として聞いてきているのだろう――そしておそらく悟空の頭の中では、この質問と三蔵がなにか関係あるのだろう――と思い、気恥ずかしいながらも、悟空の目を見つめて応えてやる事にする。
「そうですね、好きな人からの口説き文句というのはやはり嬉しいですよ。僕の関心を引こうと、言葉の限りを尽くしてくれているでしょ」
「誰に口説かれても嬉しいって訳じゃ、ありませんよ。誠意のない口説きなんてからっぽで軽々しいだけですからね。自分の好きな人が、僕のいいところを1つでも多く認めてくれている、それを言葉にして伝えてくれる。僕はそれが嬉しいんです」
悟空はもともとボキャブラリが極めて少ないと言われている。悟浄曰く「腹減った」と「さんぞー」しか語彙がないのでは、という悟空は、勿論いままで三蔵を口説いた事など一度もない。
「さんぞー、大好き」「さんぞーの傍からぜってー離れないからな」という類いの言葉はそれこそ三蔵の耳にタコが出来るほど毎日毎日口にしているが、あれも口説き文句の内に入るのだろうか?
いいや、三蔵は悟空の日々の愛の告白も、ペットが飼い主に愛情を示している位にしか思っていないだろう。きちんと言葉にして三蔵の美点をいっぱい挙げて、三蔵に嬉しい気分を味合わせたら、自分の気持ちを理解してくれるだろうか。八戒が見せたような、はにかむような表情を自分にも見せてくれるかもしれない。
誰からでもいいという訳ではない、と八戒は言ってたけれど、自分は三蔵のペットだし、誠意も愛情もそれこそ溢れんばかりにあるのだから、三蔵だって嫌な気はしないだろう・・・。
そう自分の中で勝手に話を進め結論づけた脳みそ軽量の小猿は、早速三蔵の許に帰ったら甘い言葉をいっぱい三蔵に囁こう、そして三蔵の愛を勝ち取るのだと硬く決意して今日の日を迎えたのだ。
八戒が何気なく呟いた「やっぱり口説くのには、ムードも必要ですよね」という言葉をしっかりと受け止め「綺麗な桜を見ながら三蔵を口説く」というシチュエーションまで用意して・・・。
「わ・・・、満開だ・・・」
例年は潅仏会が終わって一段落する頃には花が散り始めているのだが、今年は今がまさに盛りの状態だ。
月の光に反射する白い桜の花びらが、闇の中でうっすらとそれ自体が光を放っているかのように見え、どこか神聖で、生命のようなものすら感じさせる。
「・・・きれぇ・・・」
暫くただぽかーんと桜を見上げていた悟空の口から、ぽろりと感嘆の言葉が零れる。
「・・・まあな」
返ってくるとは思ってもみなかった人からの応えに、悟空は思わず横に立つ三蔵を見上げた。
三蔵はめずらしく白いシャツにジーンズというラフな姿である。素肌にシャツを纏っただけというのは、なかなかストイックな色気に溢れていて、悟空は薄手のシャツから透けて見える三蔵の綺麗な肩甲骨や、身体のラインにかなり心臓を圧迫されている。
ばくん、ばくんと大きく響く心音が三蔵に気づかれるのではないかと、ここに来る途中も内心ひやひやしていた。
三蔵の白い面が、桜の花びらに溶ける。普段は眩いばかりの金糸の髪も今は月光の中で淡く柔らかい光を見せている。いつもは鋭過ぎる紫暗の瞳さえ、どこか穏やかな色を見せていると思うのは、決して悟空の気のせいではない筈だ。(すっげえ、綺麗ぇ。この世で一番綺麗なのは、やっぱりさんぞーだよな)
夢見るような瞳で、最愛の人の横顔を思う存分みつめる。この数日間、三蔵の姿を映す事が出来ずに乾いていた、瞳と心を潤わすために。
暫く無言で立ち尽くしていた2人だったが、やがて三蔵が、小猿の不躾なまでの視線を感じて不機嫌そうに形の良い眉をひそめる。
「てめぇ、花見に来たんじゃねえのか? 俺の顔みてどーするんだよ」
「え・・・? あ、れ・・・。あ・・・」
険を含んだ三蔵の声に急に夢から覚めた悟空は、ぽかーんとまぬけ面のまま三蔵を見上げる。意味不明の音を口から漏らす自分のペットに、三蔵は細い指を額に当てて大きくため息をついた。
「馬鹿だ、馬鹿だと思っていたが、本当に馬鹿猿だな。てめぇは」
「ち、ちげーよ! 俺、さんぞーに言う事があんだよっ!」
「あんだ? 弁当は持ってきてねえからな」
「そうじゃねよ!」
「じゃあ、なんだってんだよ」
何だと言われて悟空も返答に困る。三蔵を口説くと決めたその日から、あれやこれやと計画を猿頭なりに練ったというのに、いざその時を迎えてみると悟空の頭には口説き文句の「く」の字も浮かばない。
(ど、どうしよう。なんて言ったらさんぞー喜んでくれるんだろう・・・)
もじもじしながら自分を見上げる小猿の姿に、三蔵の、人よりもはるかに短い忍耐の糸がぷつりと切れ掛かる。
「・・・おい、猿」
低く、不機嫌極まりない三蔵の声に、悟空はびくっと身体を震わせる。
(し、仕方無いよな。こうなったら・・・)
悟空はおずおずと三蔵に手を伸ばす。何をしでかすつもりかと三蔵が目を細めて見ていると、そっと小猿の指先が三蔵の白い手の甲に触れる。
「・・・猿?」
「あ、さんぞーの、肌にまさるモンは、ねえよな。スベスベ、じゃん」
「・・・なに?」
「え? あ、だから、さんぞーの肌にまさるモンは・・・」
そこまで言いかけた悟空の脳天を、ついぞ例をみない程の威力を発揮したハリセンが容赦なく炸裂する。
すぱぱぱぱ――――んっ!!
「・・・あう・・・」
「てめえ、湧いてんのかっ!? 何気色悪ぃ事抜かしてんだよっ!!」
「・・・う、そんな可愛くない言葉は、さんぞーの口には、似合わな・・・」
げしっ!
みなまで言わせずに三蔵は、一欠けらの情けも見せずに悟空に蹴りを食らわせる。
「う~」と唸りながら蹲る悟空を三蔵は冷ややかな瞳で見つめると、そのままくるりと踵を返した。
「ま、待ってよ、さんぞー」
離れていく三蔵の気配に慌てた悟空は、痛む腹を抑えながらよろよろと立ち上がり三蔵の後を追う。
「まってよ、さんぞー。ねえ」
ようやく三蔵に追いついた悟空が、愛する飼い主のシャツの端を何とか握り締めると、振り向いた三蔵がぱしっとその手を叩く。
「さ、さんぞー?」
「触んじゃねえ」
凍りつきそうな冷たい視線と、声音に悟空は思わず肩を竦める。
「ちょっと甘い顔すりゃつけあがりやがって。折角の休みを馬鹿猿の訳わかんねぇ戯言に付き合っている暇はねえんだよ」
「お、俺そんなつもりじゃ・・・」
「それじゃ、どんなつもりだってんだ。ああ?」
「・・・さんぞー、嬉しくなかった?」
「あ?」
「俺がさっき言ったの聞いて、嬉しくなかった?」
「嬉しい訳ねえだろうが! この馬鹿猿!」
再度振り上げた、ハリセンを握る三蔵の手が、空中で止まった。目の前の小猿が俯いて大きな金色の瞳からぽろぽろと大粒の涙を零している。今までどれだけ三蔵にハリセンで叩かれようが、足蹴りを食らおうが決して涙など見せなかった悟空が。唇を噛みしめて何かに耐えようとするかのように、ただ黙って涙を流している。
「・・・おい、猿」
「嬉しくないんだ」
つぅーと頬を伝った涙が、ぽとっと地面に落ちて吸い込まれていく。
「そりゃさ、エロ河童が言った事をそのまま言ったから、いけないのかもしれないけどさ。でも、俺、ふざけて言ったんじゃ、ないんだよ? それでもさんぞー、嬉しくないのか?」
「おい、待て。なんでここでエロ河童の名前が出てくる? てめえ、やっぱり何かヘンな事を吹き込まれてきたな?」
「ヘンな事じゃないよっ! さんぞーに八戒みたく喜んでもらいたかったんだよっ!!」
今度は、八戒か・・・。まったくあの馬鹿コンビは悟空にろくでもない知識ばかり教えやがる。
悪縁奇縁の2人の顔を思い浮かべながら、三蔵はちっと舌打ちをして悟空を視線を合わせる。ふうっと小さくため息をつくとシャツのポケットからマルボロを取り出してそっと口に咥えた。
「・・・とにかく、説明しろ。聞くだけは、聞いてやる」
大好きな紫暗の瞳の射るような厳しさに、悟空は身体を小さくしながらもこくりと頷いた。