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始めの一歩(同人誌「DESTINY」掲載)

 

「え? マジで?」

久し振りに三蔵と同じ朝食の席についた悟空は、突然の三蔵の言葉に金瞳を大きく見開いた。

三蔵が三仏神の命で、週末から10日程寺院を留守にすると言う。考えてみれば、事前に寺を空ける事を悟空に言った事は今までなかった。だいたいが、当日、

『おい、猿。暫く留守にする』

『えー! なんでだよ。また任務かよぉ。俺も一緒に行く!』

『ざけんな、猿を連れてなんて行けっかよ!』

『やだぁ、俺もさんぞーと一緒に行く――っ!』

と言う応酬の後、小猿がハリセンの洗礼を受け、しぶしぶという形で三蔵が同行を許す。・・・それがいつものパターンだった。それが3日も前から三蔵が悟空に、寺を空ける事を告げる。それだけでも、異例の事態だというのに。

「・・・分かった。俺、寺に残るから、行ってらっしゃい」

と、悟空が思ってもみない言葉を口にした。いつも「俺もついてく――!」と一つ覚えの事しか言わないこの小猿が。三蔵にハリセン往復ビンタをくらっても、それでも飼い主に磯巾着のように貼り付いていたこの小猿が。どういう風の吹き回しだろう。

三蔵が予想外の悟空の返答に、めずらしく呆然とした表情でいるのをどう受け取ったのか、

「俺だって、もうガキじゃねえんだからさ。留守番くれぇ出来るよ」

そう悟空は、視線を落として少し寂しげに笑う。その言葉と表情がそれでなくても最近やたらと苛ついていた三蔵の癇に無性に障った。

「・・・そうかよ。ガキじゃねぇってんなら金輪際、俺に付き纏うんじゃねえ」

「・・・え?」

普段も決して柔らかな口調とは言いがたい三蔵だが、それにしても常にない程の冷ややかな声音に悟空が驚いて三蔵を見上げる。何故三蔵がそんな事を言うのか判らない。そう瞳で問い掛けてくる邪気のない表情が、また三蔵を訳もなく苛立たせる。

「うぜぇんだよ。俺がベタベタされるのが嫌いだって事は、猿頭でも理解してんだろーが」

「さんぞー?」

がたんっと乱暴に音を立てて立ち上がった三蔵に、戸惑うような悟空の声がかかる。悟空の何もかもが、むかついて仕方ない。

「うるせえ! 俺はこれから仕事なんだよ。猿の相手なんかしている暇はねぇんだ。食ったらとっとと出ていけ!」

突然の理不尽な飼い主の言葉に悟空は納得いかないようだったが、それでもこれ以上自分が三蔵の前にいるだけで彼の怒りを買うと感じたのか。一瞬悲しげに三蔵を見つめると、悟空は一言「ごちそうさま」と言って両手を合わせると黙って三蔵の私室から出て行った。

三蔵は、静かに扉の外に消えていく小猿の気配を無意識のうちに追う。今までだったらこんな三蔵の暴言にも「なんで、そんなひでー事言うんだよっ!」と食ってかかり、飼い主の横に意地でも自分の居場所を確保しようとしていた悟空が、何と呆気なく三蔵の前から姿を消すのか・・・。

次第に遠ざかる悟空の足音に、三蔵はふうっと大きく息を吐いた。

最近悟空の様子が変だ。小猿だった悟空を拾ってもう何年になるのか。親鳥の後をちょこちょこと付き纏う雛よろしく、どれだけ三蔵に鬱陶しがられて強烈なハリセン攻撃を受けようが、それでもしぶとくしつこく三蔵の傍にべったりだった悟空。そんな小猿が最近、ほとんど三蔵の前に姿をみせなくなった。

今までの悟空の生活サイクルといえば、朝起きて山のような朝食を取った後、三蔵の執務室に飛び込んできては纏わりつき、ハリセンの一撃を食らう。そして合間に食事を取りながら寺院の裏手の野山で遊び、夜も仕事に追われる三蔵の横にちょこんと座って、今日一日の出来事を機関銃のような勢いで話しては「うるせえんだよっ!」と、ハリセン往復ビンタを受ける。それでも懲りない猿は、三蔵のベッドに潜り込んでは強烈な蹴りを腹に受けて沈没。それが悟空の平凡な(?)毎日であった。

それがこの数週間、朝早くに出かけて夜遅くに帰ってくる。そして、三蔵の顔を見にくる事もなく早々に自分のベッドで寝てしまう。静かなのは、非常に喜ばしい事なのだが。それにしても、一体この変化は何なのだ?

「ふん、煩くなくて結講な事じゃねえか」

マルボロを口に咥えながら三蔵は一人ごちる。しかし、どうもすっきりしない。習慣とは恐ろしいもので、この数年の間にすっかり悟空が自分の傍にいるのが、悟空の世界の全てが自分であるという事が、当たり前になってしまったのだろうか? ・・・だとすれば、かなりムカツク話だ。

傍にいても、いなくても自分の平安を乱す、忌々しい小猿。

「うるせえんだよ、この馬鹿猿!!」

当の小猿を自分の傍から追い出しておきながら。それ故三蔵の身辺は実に静かだというのに。それでも習慣化した言葉が口をつく。何故こんなにも、悟空が自分の傍にいないという事に苛立ちを覚えるのか。

何故自分があんな馬鹿猿の行動に振り回されなくてはいけないのか? 苛立ちを静める為に小猿にハリセンを食らわせる事もできず、三蔵は、腹立ち紛れに、火をつけたばかりの煙草を灰皿に力一杯擦り付ける。殆ど吸われていない煙草。悟浄が見たらさぞかし、「勿体無ぇ事すんなよな」と文句をつけるだろう。

心の片隅でそんな事をぼんやりと思いながら、三蔵は新しい煙草に火をつける。悟空の顔をまともに見なくなってどの位たつのだろうと、無意識のうちに考えながら。

 

悟空は、三蔵の私室を出ると扉の前に佇んだままふうっと深いため息をついた。

最近ほとんど三蔵の顔を見ていない。きちんと声を聞いたのは何日振りだろう。そして今朝はやっと久し振りに愛しくてたまらない顔を見る事が出来たのに。その上どういう風の吹き回しか、三蔵が事前に寺を留守にする事を教えてくれた。粘れば、文句を言いながらも同行を許してくれそうな気配だったのに。

今はそれが許されない我が身が悲しい。

(さんぞー、なんかすげー機嫌悪かったよな)

最近顔を遭わせていないし、寺院内で騒動を起こしてもいないのだから、自分が不機嫌の原因とも思えないのだが。

悟空にとって三蔵は砂漠でみつけた泉のような存在だ。少しでも姿を見なければ、声を聞かなければたちまち自分は乾いて死んでしまう。僅かな時間離れているだけでも、気が狂いそうなくらい三蔵の存在を求めてしまう自分が。

「あと、どれ位こんな生活しなくちゃいけないんだろう・・・」

小猿は指を折って計算し、出された答えに悲しげに呟いた。

「まだ、まだだよなぁ・・・」

がっくりと肩を落とした悟空は、心を三蔵に残したまま、重い足取りで回廊をぬけて行った。

 

 

あれから3日間、殆ど悟空と口をきく事もなく三蔵は寺院を発った。

このところ、朝から晩まで不在気味の悟空も、出発の時は流石に三蔵の見送りに出たが、三蔵は一言の自分のペットに声を掛けなかった。これまた珍しく僧侶たちの陰に隠れて三蔵を見つめる小猿をわざと無視して、さっさと山門を潜る。普段はうざいだけの三仏神からの任務が、今回に限りありがたいと思ってしまう。

今は悟空と一緒にいたくない。いつもの悟空の煩さに対する苛立ちではない。むしろ、最近の悟空は嘗てない程三蔵を煩わせる事なく、静かなのだ。それがどうして、こんなにも苛つくのか。

その答えが自分の中ではっきりしない今、あの小猿を顔を見ているのは精神的に耐えられない。

(だから、ガキはいやなんだよ)

自分のペースを乱す悟空を心の中で呪いつつ、三蔵は足早に寺院を離れた。

 

 

 

 

(・・・いねえのか・・・?)

薄暗い三蔵の私室は誰もいない証拠のように、ひんやりと冷え切っていた。三蔵は扉の横に無造作に置いてある椅子に、どかりと腰掛けた。疲労でずっしりと重い身体は休息を求めていた。三蔵のベッドの横にちょこんとひかれた煎餅布団には、人が寝た形跡はない。

(猿の奴、こんな時間までどこほっつき歩いていやがるんだ)

ここ数日は任務の忙しさに紛れて、あまり考えずにすんだ「苛立ちの原因」の顔が三蔵の脳裏に浮かぶ。年齢よりも幼げなマヌケ面。

思ったよりも三仏神からの仕事が早く片付いた。引き止める先方を無視して帰途についてみれば待つ者のない、がらんとした部屋。寺院に帰りついた時はすでに零時をまわっていた。寺の者もみな寝静まっている時刻だ。

流石に門番を起こす訳にもいかず、裏手にある小さな木戸からこっそりと寺院内に入った。まさか今夜三蔵が戻って来るとは寺院の者達も思ってもみないだろう。疲れた主を迎える為の準備は何一つしていない。いつもならそんな三蔵をみて、風呂だ、夜食だと大騒ぎする猿の存在も今は、ない。

この部屋は、こんなに広く、寒々としていただろうか?

三蔵は懐からマルボロを取り出すと、そっと咥えて火をつける。暗闇の中に紫煙がやけにはっきりと浮かび上がった。森々と冷え込む部屋でじっとしていると、足先が悴んでくるのがわかる。疲労で貧血気味なのかもしれない。

いつだったか、悟空にむりやり連れられて悟浄の家に泊まりに行った時。やはり前日までのオーバーワークで貧血を起こし、指先が氷のように冷たい三蔵を「低血圧の貧血気味なんて、三蔵サマったら女の子みたい」と言ってからかった悟浄に、悟空が本気で殴りかかった事があった。

いつも三蔵の傍で三蔵だけを見つめている悟空は、三蔵の寺院での生活がどれほどハードなものか知っている。寺院の僧侶達は、三蔵が着任する以前、彼がいなくてもそれなりに仕事はこなしていた筈なのだ。『三蔵法師のいらっしゃる寺院』という事で増えた仕事だけ三蔵に回せばいいものを。

「てめえら、三蔵が来る前はどーしてたんだよっ!」と思わず叫びたくなる位、寺院のありとあらゆる仕事が三蔵のもとに持ち込まれる。そして過重労働で疲れ果てた三蔵を癒すのはいつも悟空だった。―――確かに忙しい三蔵に纏わり着いて、仕事の邪魔をするのもこの猿ではあったが―――。

世話係りの小坊主達にでさえ、プライベートな部分に入り込まれるのを非常に嫌がる三蔵の為にせっせと夜食を運び、「いらん」というのに肩を揉み、気がつけば「湯たんぽ代わりな」と言って添い寝をしてくる小猿。

鬱陶しい、余計なお世話だと思いながらも、いつの間にか悟空が自分の傍で、自分のためだけに行動し、自分の事だけを思っていると思い込んでいた。

いずれは手元から離れていくとはわかっていながら、それでも心のどこかで、ずっとこの状態が続くと、自分はそう思っていたのだろうか?

悟空も、もう18歳。どうも、自分がその年の頃と比べるとあまりにも幼すぎる気もするが、それでも、もう1人立ちしておかしくない年頃なのだ。

「猿の親離れか・・・」

来るべきものが来たに過ぎない。今まで三蔵だけが世界の全てだった悟空。しかし、興味の対象も広がっているのだろう。最近自分に付き纏わなくなったのも、案外新しい『世界』を見出しつつあるのかもしれない。

所詮今の悟空の『世界は』、五行山から出た時に三蔵から与えられたものに過ぎない。自分の意思で新しい『世界』を得えれば、自分は悟空にとって『過去』のものとなるだろう。

成長した猿はここから巣立ち、そして自分はここに残って変わらぬ日々を送ってゆく―――。

今度こそ自分が望んでいた、静かな毎日になるだろう。煩わしく自分を呼ぶ声も、構ってくれないと悲しげに見つめてくる鬱陶しい視線もなくなる。そして、三蔵の為だけにあった筈のぬくもりも。愛しげなまなざしも。

「・・・馬鹿馬鹿しい」

三蔵は思わず浮かんでしまったあまりにも不本意な考えに、ちっと小さく舌打ちすると、卓上に置かれた灰皿を取りに行こうと立ち上がろうとした。と、その時。ばたんっいきなり開かれた扉に、反射的に三蔵は振り返った。そして紫暗の瞳に映ったものは。

「・・・悟空」

「えっっ!?」

誰もいない筈の三蔵の私室の中から自分の名を呼ぶ声に、悟空は飛び上がらんあかりに驚いたが。

「・・・え? さんぞ?」

間の抜けたような声で、飼い主の名を呼ぶ。

「帰って・・・たの?」

「何だ。帰ってきちゃ、いけねえってのかよ」

普段なら泣いて喜ぶ三蔵の予想外に早い帰宅なのに。この気の抜けたようなリアクションは、一体何なのだ? 三蔵の中にまたしてももやもやとした苛立ちが湧き上がってきて、自然口調もきつくなる。

「ンな事、言ってねえよ。ただ、予定よりも早かったから、ビックリしただけ」

ぼそぼそと、歯切れも悪く口の中で呟く。そんな悟空の様子に、三蔵が眉を顰める。

「・・・今までどこほっつき歩いていやがったんだ」

「・・・別に」

つっと悟空が三蔵から目を逸らす。

「別にじゃねーだろうが。消灯時間はとっくに過ぎているんだ。ガキが夜遊びなんで、百年早ぇんだよ」

「俺、ガキじゃねえもん!」

「充分てめーはガキなんだよ!」

「そんな事ねえよ! 俺だって・・・っ」

そこまで叫んだ悟空は、慌てて自分の口を両手で押さえて出掛かった言葉を飲み込む。いかにも「しまった」と言いたげなその様子に、三蔵は瞳を細めた。悟空は恐ろしい程、隠し事が苦手だ。

「『俺だって』、なんだってんだ?」

公務で疲れきっている上に、悟空との遣り取りでどんどん神経がささくれ立っていく。悟空が自分に隠し事をしている、という事が無性に癇に障った。普段はどんな些細な事でも、事細かに報告してくる小猿を鬱陶しいと思っていながら、こんな風にあからさまに『隠し事をしています』という態度をとられれば、俺に隠し事なんて、百年早ぇんだよ! と、言う気になってくる。

そんな剣呑な感情そのままの三蔵の尋問口調に、こちらも何故か全身に疲れを見せた悟空がぷっと口を尖らせると、そっぽを向いて呟いた。

「・・・さんぞーには、関係ねえもん」

その悟空の反抗的な物言いに、三蔵のこめかみがぴくり、と引き攣った。

「『関係ねえ』か。大層な口利くじゃねーか」

「あ・・・、俺そんなつもりじゃ」

流石に今の言い方は三蔵の感情を逆なでるものだと、遅まきながら気づいた猿が、慌てて言い訳するが、時すでに遅し。育てた小猿の思わぬ反抗に、三蔵のこめかみに青筋が浮かんだ。

しかし小猿の反抗的態度に対する怒り以上に、三蔵は、悟空の『関係ねえ』という言葉に少なからずショックを受けている己に気づいた。そしてその内心の動揺を表に見せまいと、殊更淡々と言う。

「じゃあ、どんなつもりだってんだ?」

「・・・」

「・・・そうだよな。てめぇも、もう18だ。1人立ちして可笑しくねぇ年だよな。ガキじゃねえってんなら、もう俺がてめえの面倒見る必要もねえ筈だ」

「さ、さんぞ・・・?」

紫暗の瞳が冷たく悟空を見下ろし、少し肉厚な唇が、感情を込めずに低く宣告した。

「出てけ」

「三蔵っ!?」

悟空の金色の瞳が、これ以上ない程大きく見開かれる。

今まで何度も三蔵と喧嘩をしては「出ていけっ!」と言われてきたし、自分も寺院から飛び出したりはしてきたが。こんなに冷ややかな瞳で「出ていけ」と言われたのは、初めてだった。

「なんで、三蔵っ!!」

「もともとあんまりてめぇが煩ぇから、あの岩牢から連れ出しはしたが。てめぇだって、もう自分の力で生きていく事は出来るだろーが」

「や、やだよ! 俺、ずっと、一生、三蔵の傍に・・・」

悟空が縋るように、三蔵の袖の端を?む。それを見つめる三蔵の紫暗の瞳が細く歪められる。

「一生、一緒になんか・・・いれる訳ねーだろーが」

いずれは、自分の元から去っていく悟空。いつまでも自分の傍にいるはずは、ないのだ。たとえさっきは感情に任せて言った言葉だったにせよ。きっといつか、本気であの「三蔵には関係ない」という言葉を自分に突きつけてくる日がくる。そんな言葉は聞きたくない。

そんな台詞を自分に向かって吐くくらいなら。その前に、自分から言ってやる。

「必要ねぇんだよ。てめぇなんか・・・」

三蔵の口元から紡がれた言葉に、悟空はこれ以上ない程瞳を大きく見開いた。顔色がさっと変わり、受けたショックの大きさに自分自身どう反応すればよいのか判らないようだ。

暫し呆然としていた小猿は、やがてきゅっと唇を噛み締めると悔しげに小さく呟いた。

「・・・わかった。三蔵がそう言うんなら、俺・・・出てくよ」

わなわなと唇を震わせながら、怒りや悔しさに感情が制御できなくなってきたのか、悟空は次第に声を荒げて、目の前に立つ飼い主に噛み付いた。

「出てけば、いいんだろ? いいよ、俺だってもう1人で生きていける! 三蔵が俺の事必要ねーって言うんなら、俺がここにいる必要もないんだ・・・。俺を必要としてくれる人は、他にもいるもん! こんなトコ、出てくよっ―――!!」

金色の大きな瞳からぼろぼろと涙を零しながらそう絶叫すると、悟空はくるりと三蔵に背を向けて物凄い勢いで部屋を飛び出して行った。

 

法衣姿のままベッドに横たわった三蔵は、左手のひらで目元を覆い隠す。

何故こんなに腹が立つのか。どうして、悟空が自分の傍から離れていった事に、こんなにも動揺してしまうのか。

所詮新しい玩具をみつければ、感心がそちらにいってしまう。悟空の自分に対する『愛情』もその程度のものだったのだ。あの猿は言ったではないか。自分を必要としてくれる人は、他にもいると。そんな自分の事を必要とし、大切にしてくれる人のもとに行ったのだろう。

そんな事、初めっからわかっていた筈なのに。

あんなにもあっさりと、自分のもとを去っていった悟空。三蔵の傍から離れるのは嫌だ、と。ずっと傍にいたい、と。あの猿が言ってくる事を、自分は少しでも期待していたのだろうか?

あれだけ一方的に詰られて、責められて、それでも悟空が自分の事を求めてくると、そんな事を少しでも思っていたのだろうか?

だとしたら、滑稽だ。

優しい言葉ひとつもかけてやれない、冷たいだけの自分に、いよいよ愛想がついたという訳か。横暴な自分に耐え切れなくなったのだろう。

知っていた筈だ。いつかこんな日が来る事くらい。判り切っていた筈なのに。

なのに、何でこんな・・・。

「・・・だせえ」

ぽつりと、三蔵の口から自嘲の言葉が零れる。その声は、彼のものとは思えない程疲れ切っていた。

 

 

 

 

「三蔵、ご機嫌はいかがですか?」

長安随一の大寺院。その頂点に立つ最高僧の執務室で、嫌味な程ほがらかな笑みを浮かべた八戒が、これまた、これ以上ない位にこやかに訊ねる。

「・・・見りゃ、わかるだろう」

ただでさえ不機嫌そうな顔を、更に顰めた三蔵が無愛想そのものの声でむっつりと応える。

「はい、見た限りでは三蔵とてもご機嫌悪そうですけれど。やはり社交辞令としては『ご機嫌悪そうですね』とは聞き難いでしょう?」

手土産の大福を書類が山と詰まれた机の上に置きながら、しれっと応える八戒を三蔵は鋭い紫暗の瞳でねめつけるが、それで他たじろくような八戒ではない。

「悟空は家に来てくれなかたんですよねぇ」

「あ?」

いきなり前置きもなく八戒が喋り出す。

悟浄や悟空と違って、三蔵の中では八戒は「言語理解力がある」と評価できる数少ない人物だが。それでも時として、理解の範疇を超える言動でこちらを振り回しては、自分のペースに相手を引きずり込もうとする姑息な手を使う。要注意人物に間違いは無い。

「僕は、悟空に来てもらいたかったんですが『それじゃ、意味ないから』って断られました」

「意味?」

「今はどこだかの、プレハブ小屋で雑魚寝しているそうです」

「プレハブ小屋?」

「ええ。とび職の方達と一緒だそうで、悟空のそこから仕事に出ているみたいですよ」

「仕事?」

「悟空は力があるし優しい子ですから、どこに行っても重宝がられているようですね」

「八戒」

すらすらと立て板に水の如く話し続ける八戒を、三蔵が険を含んだ低い声で遮る。既に八戒のペースに乗せられつつある自分が腹立たしいが、口でこの男に敵う人間も妖怪も、この桃源郷にはいないだろう事を悔しいながらも三蔵はよく知っている。

「回りくどい言い方をするんじゃねえ。てめー、何が言いてえんだ」

不機嫌極まりない顔で自分の話術に乗った三蔵を、八戒は、それでも嬉しそうに見つめながら、この気の短い最高僧をこれ以上苛立たせない為に彼の知りたいであろう事を口にする。

「悟空は今、働いているんですよ」

「猿が?」

思いもかけない言葉に、三蔵の紫暗の瞳が僅かに細められる。

「はい。犯罪に加担しない、そしてお金になる仕事でしたら、何でも請け負っているみたいです」

「金が欲しかったのか?」

悟空には自由に使える金を与えてはいない。しかしあの猿も、何だかんだといって18にもなる少年だ。遊ぶ為の金が欲しかったのだろうか? 今まで自分には、そんな事一言も言わなかったが・・・。

三蔵は思わず、口に咥えたマルボロに火を点すのも忘れて考え込んでしまう。

「・・・そうじゃなくて」

頭脳明晰、知性派な筈のこの佳人の、どこかピントの外れた考えに、八戒はがっくりと肩を落とした。

「悟空の行動の根本は、すべてあなたなんですよ、三蔵。無欲で物欲のない悟空が、あんなにがむしゃらに働いてお金を貯めようとしている。そうなれば、原因はあなただと察しがつくでしょう」

『原因』などと、まるで諸悪の根源のような言い方に、三蔵は眉間の皺を一気に増やす。そんな三蔵を見て、八戒は彼に気づかれないように小さくため息をつく。

この人は、本当に自分が悟空に与える影響というものを、理解していないのだろうか?

「・・・三蔵、あなたにプレゼントを買いたくて、それで悟空があなたに内緒でバイトをしていた、とか思いませんか?」

「猿を庇うつもりなら、もうちっとマシなフォローをしろ。馬鹿馬鹿しい」

あの猿が生意気にも、俺にプレゼントだと? 扶養されている分際で。しかもそれがいつもの『野の花』やら『どんぐり』などといったモノでなくて、バイトで資金稼ぎをしなければならないような代物だと?

「三蔵・・・」

目の前の金髪美人のあまりな台詞に、八戒は今度こそ三蔵に聞こえる程の大きなため息をついた。これでは、あまりに悟空が浮かばれないのではないか?

「三蔵、悟空は本当にあなたにプレゼントを買いたくて、ずっとバイトをしていたんですよ」

「・・・何?」

三蔵が怪訝そうな眼差しを八戒に向ける。

「悟空だって男ですからね。愛する人への贈り物を自分の稼ぎで買いたかったんでしょう」

「・・・違ぇーよ」

ぼそりと、小さな声で三蔵が呟く。その声は、八戒にも聞き取り難い程掠れて力がなかった。

「三蔵?」

「猿が何で働き始めたのかは、知らねぇが。あれはただの『親離れ』だ。猿にその時が来て巣立っていった。それだけだ。俺とは関係ない」

そして自分は、その時が来た事に気づきもしない馬鹿猿の背中を、飼い主の最後の義務として押し出したにすぎない。そう、それだけの事なのだ。

「三蔵、あなた本気でそう思っているんですか?」

「他に何があるってゆーんだよ」

「・・・」

「いずれ悟空は俺の元から離れていく。ンなのは猿を拾った時から、判りきってた事だ」

だから必要以上に情をかけないつもりでいた。どうせ奴は、いつかは飛び立っていくのだから。

悟空が三蔵に懐き過ぎるのも、彼がそれを恋愛感情だと主張しても、すべては『親』か『飼い主』に対する愛情を、猿がそう思い込んでいるに過ぎないと。そう思ってきた。『自分』という人間が『愛される』人間だとは、到底思えないから。

確かに目立ちすぎる程整った容姿と、本人が無意識の内に発している色気に惑わされてふらふらと言い寄る男も女も後を絶たないが。彼らはあくまで自分の外見だけに惹かれているのだという事を、三蔵は充分承知している。

面の皮一枚。これさえなければ、自分を『愛する』人間なんていやしないのだ。

所詮自分は、産みの親にも見捨てられた人間だ。生まれて間もない赤子を揚子江に流した、記憶にもない自分の『両親』。普通だったら流れに飲まれて溺れ死んでいただろう。あの時光明三蔵が幼い自分の『声』を聞きつけて拾い上げてくれたのは、まさに奇跡なのだ。

そんな生みの親にさえも、必要とされなかった自分を一体誰が愛するというのだろう。唯一自分に限りない愛情を注いでくれた師匠は、自分の為に命を落とした。こんな自分の為に。自分こそが師匠を守って死ぬべきだったのに。

だから、悟空の言葉が信じられない。なんで、こんな自分を『愛している』なんて言えるのか。

あれだけ鬱陶しがられて足蹴にされて。どれだけ三蔵が冷たくあしらっても、それでも悟空は自分の事を『愛している』と言い続ける。優しい言葉のひとつもかけてやれない、この自分を。

こんな自分を本当に悟空が愛しているとは、とても思えない。そう、だからあれは思い込みなのだ。自分に自由を与えてくれた三蔵への感謝の気持ちを、愛情と感違いしているのに過ぎないのだ。だから・・・。

 

 

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