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ma cherieー愛しき人へー(同人誌「ma cherie」掲載)

「さんぞーは俺を拾った事、後悔してんだろっ?」

馬鹿猿の叫び声がまだ耳に残っている。ああ、後悔してるさ。勝手に人ン中入り込みやがって、振り回しやがって、俺の身体を好き勝手にしやがって。誰をも必要としないはずの俺に……失いたくないと思わせるなんて。

てめえを拾いさえしなければ、こんな気持ち知らずに済んだんだよ。

 

事の起こりは何だったのだろう。三蔵は悟空との諍いの原因を、ぼんやりとした頭で考える。何が自分に悟空を突き放す要因を、作ったというのだろうか。

そうだ、あれは寺院の僧侶が言ったあの一言だ。 三蔵は霞みがかった脳裏に触れた、ある一言を思い起こした。

『あの妖怪も、もう子供ではありません。いつまでも三蔵様のお手許に置く必要などないのではありませんか?』

悟空も二十歳を過ぎた。

西への旅を終えて三蔵と共に長安に戻った悟空は、相変わらず寺院で、三蔵の傍で暮らしている。流石に成人してまで三蔵に扶養されるのを良しとしないのか、最近では昼間は街で出て仕事をしているようだ。日雇いの力仕事のようだが悟空の桁外れの怪力はどこにいっても重宝がられているらしい。そして、屈託のないその人柄も。

下世話な下っ端坊主や、時々からかい半分に寺院を訪れる悟浄から聞かされる、『街の娘が悟空に好意を持っている』なんて噂話も三蔵の耳に入ってきたのは一度や二度ではない。悟空に仕事を回してくれる元締めのような親父が、悟空を見込んで『娘の婿に』なんて本当だか嘘だか判らない話を、最近三蔵付きの小坊主がうっかり口にしたのはいつの事だったか。そう、もう悟空は大人の男だ。

三蔵は知らず知らずのうちに、ため息をつく。いつまでも拾った頃のガキのつもりでいたが、歳月と過酷な旅は気づかないうちに、幼い小猿を一人の男に成長させていた。あどけなさを残した頬もいつの間にか丸みがとれて、精悍さを垣間見せるようになり、背丈もいつの間にか三蔵とあまり変わらなくなった。

変化は外見ばかりではない。三蔵を包み込むような大きさと強さ、それを三蔵に押し付けない細やかさも身につけた。変わらないのは、真っ直ぐに三蔵に向けられるひたむきな愛情――。

『庇護する必要のない者をいつまでもこの寺院に置く事のないでしょう。「あれ」も、もう充分に一人で生きていく事はできるでしょうし、いい機会ですから嫁取りでもさせては……』

干乾びて、三蔵の胸元にも背丈の届かぬこの僧侶もまた、三蔵が幼い悟空をこの寺院に連れ帰ったその日からこの身元不明の『妖怪の子供』を嫌悪し、また恐怖の対象として隙あらば悟空をこの『権威ある尊い寺院』から追い出そうとしてきた者の一人だった。

妖怪達の暴走が止み、人間と妖怪が以前のように……とまではいかないが、それでもまた歩み寄っていこうと互いの手を差し伸べ合おうとしている今でさえ、寺院という閉鎖された世界の中では悟空に向けられる憎悪の目は変わらない。ただ、三仏神の命により三蔵を守り、牛魔王復活を阻止した功労者の一人という事で昔のようにあからさまに嫌がらせができないだけだ。そこで『独立』という名目のもとに悟空を自分達の縄張りから追い払おうという魂胆なのだろう。

くだらねえな……。

そう思いながらも三蔵は、僧侶の言葉を右から左へと聞き流す事ができない。

成人した悟空を、自分の手許に置く口実など何も無い。世話を焼かねばならない子供ではないのだ、悟空は。もう自分ひとりで十分に生きていける。

悟空がここに留まる理由はただひとつ――三蔵がいるから――。

しかし、そんな事で納得するような連中ではないだろうし、中にはうすうす三蔵と悟空の関係に気付いている者もいるだろう。そんな他人の思惑を気にするような三蔵ではないが、それでも僧侶の言葉が耳から離れない。

そうだ。もう悟空は三蔵だけの世界で生きる子供ではないのだ。

女人禁制の寺院で育ち、女性に対して免疫のない悟空。三蔵と食べる事意外に興味を示す事もなかった為か、西への旅でも妙齢の女性と関わる事はほとんどなかった。しかし三蔵を抱く事によって肉体の快楽を知り、旅を終え、穏やかな日々の中で彼とみあう年頃の女性との接点も増えてきた。

もともと悟空に同性に惹かれる傾向がある訳ではない。狭い世界の中で三蔵しか見えていなかった悟空が、絶対の存在である三蔵を恋愛対象に選んだのは自然の成り行きだったのかもしれないが。

娘達に好意を寄せられ、広い世界を知った悟空が「男」として「女」を選ぶ事の方が自然なのだと思う日がきてもおかしくは無い。いや、むしろそうなるのが、当然なのかもしれない。

そう思った瞬間三蔵は、『悟空が自分の傍から離れていく』という予感に驚く程動揺している己の心に驚愕し、慌ててそんな自分を叱咤し、強く己に言い聞かせた。

何故、こんなにも無様に心が揺れる?手放す準備はずっと以前から出来ていたはずだ。いつ自分の庇護のもとから飛び立っても、いいと思っていたはずだ。

悟空を束縛する気も、束縛される気もない。ただ自分は、ひとりで餌を捕る事も出来ない小猿を、拾って育てたにすぎない。時がきて、成長した小猿が自分の手から離れていくとしても、それも悟空の自由なのだ。

そう思っていた。だからあの時自分は、悟空に言ったのだ。

 

「もうガキじゃねえんだ。出て行きたけりゃ、いつでも出て行け」

 

 

 

 

身体の関節が悲鳴をあげている。叫びすぎて喉がかれた。そして、まだ身体の芯が疼いている。

悟空の想いを受け入れてから、数え切れないほど身体を重ねてきた。いつでも三蔵を宝物のように、大切に大切に扱ってきた悟空。しかし悟空があんな風に、三蔵の意思を無視して力ずくで彼を抱いたのは初めての事だった。

三蔵の言葉に我を失った悟空に、いつもの労りなど欠片もない。抵抗する三蔵の身体を片手で捻じ伏せて、優しい愛撫もなく力任せに三蔵の身体を奪う。行為のあまりの激しさと激痛に意識を失ってしまった三蔵を、それでも悟空は放そうとはせず、狂ったように責め続けた。

「何でだよ! 何でいきなりンな事言うんだよ? 俺何か三蔵の気に触る事したか?」

金色の大きな瞳が、食い入るように三蔵をみつめる。

「俺、ちゃんと働いて、三蔵にだって寺にだって、メーワクかけてねぇじゃんか」

大きく意外と骨太な手が、乱暴に三蔵の細い腕を掴む。

「ちゃんと大人になってペットとか、養い子とかじゃなくて、対等に三蔵に見てもらいてえって思ってたのに。何でガキでなくなったら三蔵の側を離れなくちゃいけないんだよ! ンなのおかしいよっ!」

興奮して息巻く悟空に、三蔵は低く感情を込めない声で淡々と言う。

「坊主でもねえお前が、いつまでも寺にいる方がおかしいだろうが」

「カンケーねえよ! 三蔵がいる所が俺のいる所なんだから」

「ガキじゃねえんなら、ンなワガママぬかしてんじゃねえよ」

「……三蔵は、俺に出ていって欲しいのかよっ!」

お互いに感情が高ぶって、制御がきかなくなる。

「……自分の娘とてめえを結婚させてえっていう物好きもいるそうじゃねえか。街の女が何人かここまでてめえを訪ねてきたって、門番の坊主が言ってた」

「ンなの俺知らねえし、カンケーねえよ」

「いい機会だから、てめえの所帯を持たせたらどうだっていう意見も寺院内にある」

「他の奴らの意見なんて、どうでもいいよ! 三蔵はどう思ってんだよ。俺に好きでもない女の人と結婚しろって言うのかよ? 俺が好きなのは三蔵だけだ!」

「……不自然だってんだよ、いつまでもてめえが俺の側にいるのは」

「何が不自然だってんだよ、そんな事普段気にもしねぇくせに……。俺のコト嫌いになったからそうやって女に押し付けようってのかよ!?ひきょうだ、三蔵っ!」

 

悟空の瞳に、いつにない三蔵への憎しみの色が浮かぶ。恋を知れば、いつまでも子供のままではいられない。無垢な悟空の三蔵への愛情も、やがて猜疑心や独占欲という昏い感情を抱く事になる。

三蔵が自分を受け入れてたと確信してからは余計に、束縛する事など出来ないとわかってはいても、彼を自分ひとりのものにしたい、彼の紫暗の瞳に映るものは自分だけでありたい……という独占欲に苛まれる事が多くなってきた。

三蔵が俺から離れていくなんて……、ぜってえそんなのイヤだっ! ゆるせねぇ!三蔵は俺のモンだ! 俺だけのモンだっ!

三蔵の細い手首を骨が軋むほど強く握り締めて、そのまま三蔵を寝室に引きずっていく。抵抗する三蔵の声も、悟空の耳には届かない。あとはただ、本能に突き動かされている獣のようだった。

苦痛に歪む三蔵の顔も貫くたびに上がる掠れた悲鳴も白くなるほどにきつく、縋りつくように悟空の腕を掴む三蔵の指先から感じる痛みさえ、どこか遠くの出来事のようで。全てが悟空の中では現実感を伴わない、スローモーションの映像を見ているようだった。

三蔵の涙さえ、今は悟空の心を動かさない。

そして永遠に続くのではと思われる程長かった夜がようやく明ける頃、三蔵を一人残して悟空は寺院から姿を消したのだった。

 

 

 

 

「三蔵サマ、どーしちゃったの? 顔赤いじゃん」

「熱でもあるんじゃ、ありませんか?」

勝手知ったるなんとやら、悟浄と八戒が三蔵の執務室に押しかけてきたのは、悟空が三蔵の許を去って二週間程してからだった。

定位置の机に向かい、いつもと変わらずに仏頂面で書類に目を通している三蔵に、悟浄と八戒は眉をひそめた。人よりも白い頬を不自然なほどに赤く染め、きつい紫暗の瞳を潤ませている。どことなくだるそうな三蔵の額に触れた八戒の手を、彼は鬱陶しげに払いのけた。

「触るんじゃねえ!」

「……って三蔵、本当に熱ありますよ!」

元々平熱の低い三蔵が、今は指先で触れただけでもかなり高熱であることが判った。

「うるせえ、俺は忙しいんだ。くだらねえ事しゃべってんなら、とっとと帰れ!」

「三蔵!」

思わず八戒が三蔵の左二の腕を掴む。すると、三蔵はかすかなうめき声をあげて身体を強張らせた。

寺院の僧侶たちがこのところ姿を見かけない悟空の事を、「また以前のような家出か。このまま戻ってこなければよいものを」と、囁きあっている。彼らは悟空の行方不明を、子供の頃三蔵と喧嘩をするたびに寺院を飛び出し悟浄達の許に泣きついていた、あの延長だと思っているらしい。

そんな言葉に耳も傾けず、三蔵は黙々と公務をこなしていた。悟空が飛び出していってから日をおかず三仏神の命で、三蔵は十日ほど長安を離れた。牛魔王蘇生実験が原因で暴走し自我を失った妖怪達も、その後、元の生活に戻る者もいれば戻るべき場所を失い放浪の末、夜盗などに堕ちる者もいた。中には強力な妖力を持ち、街の自衛団やそこそこの法力をもった僧侶ではとても対処できない件もあり、今回も三蔵が赴き事の解決にあたった。

相手は一人だったが妖力も桁外れに強く、また八戒のように気孔術にも長けていた。魔天経文を用いてどうにか封じ込む事ができたが、その時に腕に負った傷から黴菌が回ったのか、三蔵の腕はひどく腫れ上がっていた。一応の手当ては自分でしたものの思うように回復せず、今も疼いて熱を持っている。

「三蔵、怪我しているんですか?」

額に脂汗を浮かべて苦痛に耐える三蔵に、八戒はとっさに彼の腕を掴む力を緩める。

「おい、猿はどこ行ってんだよ。普段はおめえが具合悪い時は、傍にべったりだろうが。こんな時にどこほっつき歩いてんだよ」

「……悟空は、お前たちの所じゃないのか?」

三蔵は空いている方の手で無意識に傷を庇う姿勢をとりながら、不思議そうに二人を見上げた。

「いいえ、来ていませんよ。さっき街で親方さんが、最近悟空が顔を見せないって言ってましたから。てっきりあなたの傍にいるものだと……」

……そうか。もう悟空も喧嘩をするたびに、悟浄や八戒の家に逃げ込んで泣きつくガキじゃ、ねーんだな

三蔵の紫暗の瞳が、切ないげに歪む。そんな悟空の不在と三蔵の様子に、ただならぬものを感じながらも、今は三蔵の身体の方が先だと、八戒はそっと三蔵の肩に触れて顔を覗き込む。破傷風になどなったら厄介だ。

「とにかく横になってください。傷の具合診ますから」

「うるせえ! 触るなってんだろうが!」

尚も自分に触れる事を強く拒む、手負いの獣のような三蔵に、二人はため息を禁じ得ない。仕方ありませんね

「三蔵、許してくださいね」

そう小さく呟くと八戒は、素早い動きで三蔵の鳩尾に拳を叩き込んだ。とっさの事に何が起きたのか理解しないまま、小さなうめき声をあげてぐらっと崩れる三蔵の身体を、八戒の腕が抱きとめる。

「あーあ、いいのかぁ?奴さん、怒るぜ」

八戒の胸に顔を埋めるようにして意識を失った、苦しげな三蔵の顔を心配そうに覗き込む親友に、八戒は苦笑しながら言った。

「こんな三蔵を放っておいて、あとで悟空に殺されるよりはずっとマシですよ」

「……たしかにな」

三蔵の身に何かが起きるたびに暴走していた、小猿の姿を思い浮かべる。……いや、もう小猿とは言えねえか……。

どこに居るんだよ、この馬鹿猿。てめえの大切な三蔵サマをこんな身体のまま放ったらかしにしやがって。

自分の声なんかでは悟空に届きはしないと判っていながら、それでも悟浄は心から、長年の喧嘩友達に呼びかけた。

 

 

 

八戒に当て身をくらわされた三蔵は、ベッドの上に上半身を起こして眉間に通常より三割方不機嫌度を増した顔で、煙草をふかしていた。

結局三蔵の傷はかなり危ない状態で、あの後医師団が駆けつけ、寺院内は大騒ぎとなった。三蔵の自己管理がなっていないと言ってしまえばそれまでだが、三蔵の身に何かあれば同じ寺院で暮らす僧侶たちが彼の容態に気づかなかったでは済まされない。

絶対安静を言い渡された三蔵は、きちんとした手当てを施されて容態も少し落ち着いてきたが、こうも暇になってしまうと、嫌でも『それ』が『心』に聞こえてしまい、イライラして仕方ない。あれからずっと聞くまいと、心を閉ざしていたあの『声』が。自分を捕らえて離さないあの『声』が……。

いや今のそれは、以前に聞こえた『声』にならない『声』ですらない。『想い』だけが音もなくストレートに三蔵の心に飛び込んでくるのだ。

しくて、切なくて、愛しくて、逢いたくて……。

「うるせえんだよ……」

蔵は、ぽつりと呟いた。

傍にいても煩わしく、離れてしまうと尚更煩くなる自分の馬鹿猿。拾ってからこの十数年、一度だってこんなに長い間自分から離れた事などなかった。こんな風に病んだ三蔵を残して姿を消してしまう事などなかったのに。

てめえが自分から、離れていったクセしやがって……。

「それなのに、何で呼ぶんだよってツラしてんな。金蝉、いや、玄奘三蔵」

いつの間にか自室の扉にもたれかかるにして立っている、豊かな黒髪を持つ見知った妖艶な女性――あくまで外見だけだが――の存在に気づいた三蔵が、苦虫をつぶしたような顔をして小さく呟いた。

「……菩薩か」

「ああ、呼んでいる訳じゃねえか。一方的にしかも無意識に、お前ン中に自分の想いを送っているだけだよな」

観世音菩薩は人の悪い笑みを口元に浮かべながら、わざと三蔵を挑発するように言う。

「うるせえ! 何の用だってんだ。俺は今ムシの居所が悪ぃんだ! さっさと失せろっ!」

三蔵の、視線で人を殺せそうなほどの、強くきつい眼差しにも菩薩は露ほども動じない。

「てめえの猿の行方、知りたいんだろう?」

「……っ!」

「てめえも自分で判っているんだろう? あのチビがいつか自分から離れていくかもしれないと思うと不安でたまらなくて。だから、あいつが離れていく前に自分から手放そうとしたんだろう?」

「うるせえ……」

「おまえは弱いからな。そうそう大切なものを失う事に耐え切れない」

「……だまれっ」

「『離れていかれたんじゃない。自分が手放したんだ』、『自分は始はじめから、あんな奴を必要とはしていない。だから、離れていっても関係ない』。そんなくだらない理屈をつけて、てめえの弱さを見て見ぬふりをしているんだろう?」

「だまれってのが聞こえねえのかっ!?」

とっさに三蔵はサイドテーブルに置かれた一輪挿しを握り締めると、それを観世音菩薩に投げつける。華奢なそれは、菩薩の頬を掠めて扉にぶつかり、甲高い音と共に砕け散る。

「女のヒスよりみっともないぜ。情緒不安定もいいとこだな」

荒い息を吐きながら、きつい紫暗の瞳で睨みつける三蔵を鼻で笑って、観世音菩薩は三蔵の枕元に遠慮もなく腰掛ける。

「先代の光明三蔵がてめえに言った『強さ』ってのは、失う事を恐れて大切なものを作らずに一人で生きていく、生きていけるという『強さ』なのか?」

三蔵の肩がびくっと揺れる。

「そうじゃねえだろう。自分の弱さを受け入れて、大切な者達と苦しみも悲しみも、そして嬉しい事も全て共に分かち合って生きていける、そんな『強さ』じゃねえのか? 誰をも必要としないなんて、本当の強さじゃねえんだよ。そんなの失う事を恐れて逃げ回っている奴の言い訳さ。わかってんだろ、玄奘三蔵」

三蔵は俯き、きゅっと手元のシーツを握り締めたまま、身動きひとつしない。

「先代がせっかくてめえの為に残した言葉を、自分の都合のいいように解釈してそれで自分を縛るのは、もうやめにしな。人間なんてどんなに強がったって所詮ひとりでなんて生きていけない生き物なんだよ」

「……お節介なババァだな」

初めて微かに口元に苦笑を浮かべた三蔵を前に、観世音菩薩は足を組んで踏ん反り返る。

「ふん、本当は俺だってこんな面白い痴話喧嘩は、高みの見物を決め込みたいんだがな。そうも言っていられねえんだよ」

「なに?」

「あの猿が暴走したら、手のつけようがない。それはお前も知っているだろう?」

菩薩の言葉に三蔵が眉を顰める。

「……悟空の金鈷がはずれたのか」

「いや、まだそういう状態じゃねえ。だが、あいつが暴走する時ってのは、お前さん絡みの時と昔から決まってるんでね。俺としても、昔の二の舞は繰り返したくねえし。あんな不安定な心のままじゃ、なにかのはずみで何時暴走してもおかしくはないからな」

そう言うと観世音菩薩はすっと立ち上がり、いとおしむような眼差しで三蔵を見下ろした。

「よく考えてみるんだな。今自分に一番必要なものは何か、てめえが本当に身につけなければいけない『強さ』とは何かをな。失う事を恐れて自分から手放すなんて、本末転倒だろ?」

そのまま菩薩は、そっと三蔵の輝く金糸の髪に触れる。五百年前に、同じ黄金の髪を持つ甥にしたのと同じように。

「あいつは、五行山にいる」

「五行山?」

三蔵と出会うまでの五百年、悟空が孤独のうちに過ごした牢獄。

「なんで、そんな所に」

悟空は今では自由の身だ。もともと三蔵が岩牢から連れ出した時も、悟空幽閉の仔細を知る三仏神からも、何の咎めもなかった。それに、実際悟空がどんな大罪を犯して監禁されていたのか三蔵はいまだに知らないが、その罪のも牛魔王蘇生実験を阻止した功労によって許されたのだ。

今の悟空には、自分で生活していけるだけの力もある。彼を受け入れてくれる人達だっている。なにもあの忌まわしい、悲しい記憶しかない五行山に戻る必要などないのに……。

「お前がいなけりゃ、シャバも五行山もかわりはないんだよ。あのチビにとっては」

菩薩の言葉に、三蔵がはっと顔を上げる。

「お前がいない世界なんて、どこも牢獄なんだろうよ。お前はあいつの『太陽』なんだからな」

それだけ言うと、観世音菩薩の姿は淡い光の中に溶けて跡形も無く消えてしまった。

菩薩の残り香が漂う中で、三蔵の耳に、馴染んだ悟空の声が甦る。

『さんぞーは、俺の太陽だよ』

『さんぞー、大好き』

『俺、ずっとさんぞーの傍にいる。ぜってー離れねえからな』

今も三蔵の心に響く『声』にさえならない悟空の想いを、三蔵はじっと身体全体で感じていた。

 

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