Wing 2
三蔵は、俺の太陽だから。
きらきら輝いて、眩しくて。
その光でいつも俺を導いてくれる。
三蔵、大好き。
いつか、俺がもっともっと大人になったら
ぜってー三蔵を幸せにするからな。
宝物みたいに、大切に大切に、するなかんな。
だから・・・。
「え?」
「4、5日八戒達んとこに行ってろ」
「あんで? とーぶんでかい法要はねーんだろ?」
目が覚めた途端開口一番に、愛する飼い主に告げられた言葉に、小猿は納得がいかないとばかりに、口を尖らせて抗議する。
大好きな、大好きな、離れて生きていくなんて想像もできない程愛しい飼い主と離れて、何故八戒と悟浄の家に厄介にならなくてはならないのか。
寺で催される大法要も暫くはない。三仏神から呼び出された様子もない。なのに、なのに、どーして他家にお預けの身にされてしまうのかっ?
「明日っから、客が来んだよ」三蔵が眉間に皺を寄せて、吐き捨てるように言う。
「客?」
「面倒くせーが、それなりの高僧なんでな。俺が相手しなくちゃいかん」
そう言いながら、懐からマルボロを取り出すと、手馴れた仕草で厚めの唇に咥えて火をつける。その少し苛ついた様子をみると、その『高僧』なる人物の相手をするのが心底嫌がっている事がうかがえる。
「で、なんで俺がここにいちゃいけないのさ」
「てめーがいると、いつも騒ぎ起こして大変なんだよっ! それでなくても、面白くもねえ相手と4日も顔つき合わせてんだ。その上てめーがまた騒ぎ起こしたら、面倒なんだよ!」
「でも、でも、三蔵。いつもの法要ン時とは違って、ちゃんと部屋に帰ってこれるんだろ?」
「ああ?」
大法要の時などは、超多忙を極めてとても自室で休む事など出来ない三蔵である。日頃は寺院の最も奥まった場所に執務室と続き部屋の寝室をもつ三蔵だが、繁忙期になるといつでもどんな時でもすぐ動けるようにと、寺院の中心に仮設の執務室兼寝室が設けられそこで寝泊りするハメになる。(そして仮設寝室はひとり部屋なので、とても悟空の万年床が用意できる環境では、ない)
「なら、大人しく三蔵の部屋で待ている! 部屋からは、ぜってー出ねぇからさ。だから、ここにいていいだろっ? 八戒達ンとこ行かなくても、いいだろ?」
「・・・てめーが大人しく部屋ン中に閉じこもっていられんのか? 供の坊主もうぜぇくらいに付いてくる。マジで部屋からは出れねーぞ」
僧籍にある訳でもない悟空が寺院にいる、というだけでも不自然なのに。その上彼は妖怪なのだ。ヘタに悟空が寺院内をウロウロすれば、三蔵からしてみれば招かれざる客である高僧との間にまた余計な悶着が起きるに違いない。
しかし悟空にとって、外に出る事の出来ない閉じ込められた空間は、五行山の岩牢を思い出させる。だから、悟空は狭い空間に押し込められるのが嫌いだ。
幼い頃三蔵がいない間にやっかみ半分の坊主達が、悟空を狭い納屋に無理矢理押し込めた事があった。三蔵が帰ってきてすぐに納屋から解放された悟空だったが、精神的ショックが大きかったらしく、暫くは三蔵が添い寝をしなければ夜もうなされてろくに眠れない有様だった。いくら馴染んだ三蔵の私室とはいえ、4日間も閉じこもっているのは、悟空の精神上よくないのでは、と三蔵は思う。
だが、しかしそんな飼い主の心配をよそに黄金の瞳の小猿は、にぱっと曇りのない笑顔を三蔵に向けて言った。
「大丈夫だよ。だって、寺ン中には三蔵がいるんだろ? 夜になれば、帰ってきてくれるんだし。太陽が近くにあれば、平気だもん」
五行山とは、違うのだ。もう届かない太陽に焦がれていた孤独な日々に怯える必要はない。そして、あの幼い日に納屋に閉じ込められた時のように、三蔵が傍にいない訳ではない。自分の『太陽』が、手を伸ばせば届くところにいるのだから。待てば必ず戻ってきてくれるのだから。だから不安じゃないし、辛くもない。
「だから俺、部屋で三蔵の帰り待ってっから」
そんなペットの眩しい笑顔に、仏頂面の飼い主の答えは、
「・・・勝手にしろ」
の一言だった。
なんか、生っ白くて弱そうなヤツ。だけど、三蔵を見る目が、気に入らねぇ。
翌日三蔵達が身を寄せる大寺院で迎えた高僧を、垣間見た悟空の感想である。
『海玄僧正』と名乗ったその男は、年の頃は27、8くらいだろうか? その年で僧正の地位に昇っただけあって、落ち着い佇まいと穏やかな風情、そして高い学識の持ち主のようだった。だが、どんなに徳の高い僧侶であっても、悟空には関係ない。あの三蔵を見る、憧憬と共に欲を感じさせる目。それだけで、小猿にとってあの男は敵だ。
三蔵の並外れた美貌と無意識に醸し出す色気が、男女を問わずに人を惑わせる事は悟空も知っている。そして、三蔵がそれを非常に不愉快に思い、彼の接触嫌悪に拍車をかけている事も。
そんな他人との接触を拒む人嫌いの飼い主の気持ちを思って、悟空はずっと自分の気持ちを押さえてきた。
三蔵が好き、三蔵が欲しい、と。悟空も、もうじき18歳になる。愛する人の全てが欲しいと望んでも、おかしくはない年頃だ。出逢った時から惹かれていた。愛していた。年々三蔵への思慕は膨れ上がるばかりだ。三蔵の肌に触れて、三蔵の全てにくちづけて、最愛の人とひとつになりたい。だけど、きっとそれは許されない。
三蔵は自分の事を、拾った頃の小猿のままだと思っている。だからこそ、人に触れられる事の嫌いな三蔵が、ペットで養い子の猿だから、と悟空が三蔵に触れるのは特別に許してくれる。彼にとって悟空が抱きついたり手を繋いだりする事を求めるのは、飼い主とペット、もしくは養い親と養い子のスキンシップ程度の認識でしかないのだろう。
それでも、その行為も悟空だからこそ許された特権なのだ。そんな三蔵の信頼のようなものを裏切る事は出来ない。彼に対して欲望を持っている、なんて事が知れたら、あの潔癖症の三蔵の事。きっと自分は捨てられてしまうに違いない。
その前にきっと寺の坊主達に放り出されるだろう。彼らは自分達の『三蔵法師』の傍近くに異端の存在がいる、そしてそんな不逞な輩が三蔵から特別扱いされているという事だけでも、許せないのだ。もし、悟空が三蔵に手を出そうなどとしたら、問答無用で追い出される。
それだけは、ぜってー嫌だ。どんな時でも三蔵の傍にいたい。離れるのは、死んでも嫌だ。
だから・・・ペットのままでいようと誓った。三蔵の傍にいる為だから、どんなに欲望を押さえるのが辛くても、それでも『ペットの養い子』でいつづけよう。
そんな悟空の決意を、ひとりの男の短慮によって崩されようとしていた。
「三蔵殿の法名は、『玄奘』でしたね」
執務室の続き部屋である三蔵の寝室では、悟空が扉にぴとっとへばりついて、向こうの会話に聞き耳を立てている。
「・・・それが、どうした」
「いえ、私の法名にも『玄』の文字がありますので、これも仏縁かと」
穏やかな、だがしかしどうも媚を売っているようにしか思えない男の物言いに、三蔵はちっ、と小さく舌うちをする。たまたま、名前に同じ字があっただけの話。それのどこが仏縁だというのだ。だとしたら、悟空も悟浄も同じ『悟』の字を持つから、仏の縁で結ばれているとでもいうのか。あいつらの場合は、仏縁じゃなくて、悪縁・奇縁つーんだよ。
三蔵は心の中でこの年若い僧正を罵倒すると、彼の言葉に返事もせずに、開かれた窓の外に視線を向ける。
三蔵の気を惹こうと先ほどからくだらない事ばかり並べている、この迷惑この上ない賓客に三蔵は苛立ちを押さえきれない。清廉潔白、まさに仏弟子の鏡のような男と三蔵の気が合う筈もないのに。それ以上に、自分を見るこの男の目がたまらなく鬱陶しい。おそらく本人も気づいてはいないのだろう、欲に塗れた眼差し。こんな女欲をも断ち切ったような男が、何を血迷ったのか。さっさと自分の寺に帰ればいいものを、何とか理由をつけて滞在を伸ばそうとするのがまた癇に障る。(てめーの相手なんか、している暇はねーんだよ!)
こんな辛気臭いヤツの面を見ているくらいなら、自分ンとこの煩い猿の相手をしていた方がまだマシだ。そう思った瞬間、三蔵の脳裏に悟空の顔が過ぎった。
海玄僧正が着てからこの3日間。驚く程大人しい小猿。しかし夜になって三蔵が部屋に戻ると、見えない尻尾を千切れんばかりに振って喜ぶが、なにやらこの招かれざる客を異常に気にしているようで、彼について煩く質問してくる時の悟空は、彼らしくない程ピリピリしている。
(一体猿が、何をそんなに苛ついてんだ?)
元々が大らかで人好きのする悟空である。流石に、寺院の僧侶達に好感情を抱いてはいないが、それにしても全くといっていい程接触のないこの僧正を、どうしてここまで嫌悪するのか。三蔵には、いまひとつ理解できない。
「三蔵殿?」
「あ?」
自分でも気づかないうちに物思いに耽って、海玄僧正がすぐ自分の横にまで近寄っていた事に迂闊にも気がつかなかった。
「・・・三蔵殿」
「なんだ」
三蔵の紫暗の鋭い光が、真っ直に彼を射る。そのあまりの強さに、僧正は思わず後退りをしてしまう。
「・・・だから、何だってんだ?」
険を含んだ三蔵の低い声が、部屋に響く。流石に他の寺院からの賓客を前に精神安定剤代わりの煙草を吸う事も出来す、性に合わない坊主との対話やら何やらで、三蔵のストレスも限界まできている。苛立ちを隠そうともしない三蔵に、男は一瞬腰が引けたが、それでも意を決した表情でぐっと一歩前に足を踏み出す。
「三蔵殿、私は・・・っ!」
切羽詰まった声でそう言うといきなり、海玄僧正は三蔵の腕を掴んで自分の腕に抱き寄せた。
「なっ・・・!」
不意打ちをくらった三蔵の身体は、そのままバランスを崩して男の腕の中に倒れ込む。体格的には三蔵と同じくらいだが鍛え方がまるで違う優男に、よもや寺院内で不埒な所業を働かれるとは思ってもみなかった三蔵は、不本意な事に男の腕に抱き締められるハメになった。
「てめ、何しやがるっ!!」
怒りに頬を紅潮させた三蔵だが、至近距離で見る彼の美貌に目が眩んだ僧正には、三蔵の怒りを感じ取るだけの余裕すらない。むしろ白い頬を赤く染め、紫暗の瞳をきっと自分に向ける様は、どんな人間でさえも心奪われる程の煽情的な美しさと艶かしさだ。
「わ、私は、幼い頃に仏門に入ってこの年まで、た、ただひたすらみ仏に、お仕えしてまいりました。女犯は勿論、だ、男色などにも、心は惹かれませんでした。でも、あなた様のお姿を、初めて拝しました時から・・・」
早口で一気に捲くし立てると、男は三蔵の細い顎を掴んで、その厚みのある唇に自分の唇を寄せようとした。
「・・・!!」
扉の向こうで、悟空が息を呑む。鍵穴から向こうの様子を覗く事はかなわないが、会話と気配からあきらかにあの男が、三蔵に手を出そうそしているのを感じ取る事ができた。
三蔵に絶対、一歩も部屋から出ないと約束した。三蔵の傍にいたいから。八戒達のもとにお預けの身にされて、愛する人からたとえ僅かな間でも離されるのは嫌だから。だから、悟空にしては奇跡ともいえる程の忍耐で、じっと三蔵の私室で最愛の人の帰りを待っていたのだ。
だけど、男の行動に悟空の理性より本能の方が先に動いた。
ぜってーゆるせねぇ! 三蔵に触れるヤツは、誰であってもぜってーに許す事なんてできねえ! ぶちのめしてやるっ!!そう思って、部屋の扉を蹴り破って飛び出そうとした瞬間。
がうん、がうんっ!!
耳慣れた銃声。あれは三蔵のS&W。さっと顔色を変えた悟空が、本当に扉をぶち壊して飛び込んできた。そこで悟空の見たものは。無表情で、今だ硝煙を噴く愛用の銃を構えた姿の三蔵と、こめかみに一筋の血を流したまま腰を抜かしていた海玄僧正の姿だった。
「・・・てめぇ、三蔵に何しやがった―――っ!!」
日頃の悟空からは想像もできない程の怒りのオーラを撒き散らして、咆哮と共に悟空が海玄僧正に襲いかかる。小さな茶色い塊が自分目掛けて突進してくるのに、僧正は逃げる事もでずにただ呆然と床にへたり込んでいる。腰を抜かしたままの男に馬乗りになると、悟空は牙を剥いて息が詰まる程の乱暴さで相手の胸倉を掴み上げ、その顔面に強烈な一撃を食らわそうと、その力強い拳を振り上げた。が・・・。
「やめろ、悟空」
意外にも、暴走した悟空を止めたのは三蔵の低い凛とした声だった。
「・・・さんぞ?」
愛しい人の思いがけない制止の言葉に、ゆっくりと馬乗りになったままの姿勢で、悟空は声の主を振り返る。
「そいつを放せ」
「だ、だってこいつ、三蔵の事・・・!」
「いいから、そいつから離れろ」
怒鳴る訳ではない静かな、しかし有無をいわせぬ強い声に、悟空は大きく目を見開くと、悔しげに唇を噛み締めながら放り投げるように、男を放した。海玄僧正は半分白目を剥いて、口の端から泡を吹く情けない姿のまま、床に転がった。
悟空は納得できないとばかりに金色の瞳で最愛の人に訴えるが、当の三蔵は全く無表情のまま小猿の視線を退ける。やがてドカドカと、寺院には相応しくない程の騒々しい足音をたてて、銃声を聞きつけた僧侶達が駆けつけてきた。
「三蔵様、今の音は一体・・・っ!」
数人の坊主を従えた老僧が、緊急事態とばかりに最高僧の部屋に入室の許可もないまま飛び込んできたそして視界に飛び込んできた光景に、一瞬にしてこの部屋で何があったのかを悟ってしまった。
無表情に、賓客である僧正を見下ろすこの寺院の主と、その彼を庇うようにして賓客に牙を剥いて威嚇するペットの小猿。そして、肝心の海玄僧正は、といえば・・・。
彼がどんな愚を犯そうとしたのかは一目瞭然だった。
「あんでだよ、三蔵っ! あんであんなヤツぶちのめしてやんないんだよっ!!」
もうそろそろ日付も変わろうとする時刻。三蔵の寝室では、小猿が大きな金色の瞳を吊り上げて飼い主に食ってかかっていた。
「あいつ、三蔵にヘンな事しよーとしたんだろっ? なんで、いつもみたいに、ぶっ飛ばしてやんねーんだよっ!」
「・・・うるせえ」
三蔵は心底面倒くさそうに呟くとベッドサイドに置かれた机の引き出しから煙草を取り出すが、中身が空なのに気づいて、忌々しげに小さく舌うちをすると空箱をぽい、と屑篭に放り投げる。
「さんぞっ!!」
全くとりあってはくれない飼い主の態度に、悔しさのあまり悟空はキリリと唇を噛み締めた。
結局海玄僧正はあの場の駆けつけた老僧の「いつまでも僧正様がご不在では、お寺の留守を預かる方々も大変でしょう」という遠まわしにお引取りを願う言葉に従って、早々に自分の寺へと帰っていった。
末は阿闍梨にでもなろうかという前途ある高僧が、よりにもよって最高僧である三蔵法師に不埒な行いをしようとしたとあっては、双方の寺院にとっても外聞が悪い。なんといっても相手は位の高い僧侶だ。若い修行僧などとは訳が違う。ここは見て見ぬ振りをするのが1番、というのが保守的で臭いものには蓋をしたい僧侶達の思惑なのだろう。そして、意外な事にその処置に対して、三蔵が何の意も唱えなかったのだ。
それでなくとも潔癖症の三蔵だ。普段なら自分に触れようとする輩には、容赦ない制裁を加えるのに。あの状況なら腕や足の2、3発打ち抜かれても可笑しくはない。それでも、穏便にすまされた方と言えるかもしれない。それが、わざと外して脅し程度にこめかみを掠る程度に発砲しただけなんて。
ぜってー、納得いかねえ!あいつが『偉い』から、だから三蔵も黙っているのか? 日頃そんな地位とかなんか「くだらねえ」とか言っているクセに。俺がおんなじ事したら、問答無用で寺から放り出される。三蔵だって、きっと俺の事許してくれない。なのに、なんであの男は許されるんだっ!?なんで、三蔵はなんにも言わねーんだよっ!
「三蔵っ!!」
心の中で荒れ狂う嫉妬と、予想外の三蔵の海玄僧正への態度にキれた悟空が、飼い主に詰め寄る。しかし、三蔵は相変わらず面倒くさそうに、悟空に視線ひとつ向けずにぼそり、と吐き捨てるように同じ言葉を繰り返す。
「うるせーっつてんだろーが。どーでもいいだろうが、この馬鹿猿」
あんな情けない男。己が犯そうとした罪に恐れ慄き、怒り狂う悟空に腰を抜かして口から泡を吹いているような、そんな男の為にマジになって怒るのさえ馬鹿らしい。余計なエネルギーを使うだけだ。寺の体面ばかりを気にして、穏便に事をすませようとする坊主達だって、今更だ。全てが面倒くさい。ヤツを半殺しの目に合わせてやって、また一騒動起こるのは、真っ平だし、これ以上奴等に関わって不愉快な思いをするのは、願い下げだ。
しかし、そんな三蔵の心のうちは、悟空には伝わらない。三蔵の投げ遣りな一言に、小猿がぶちっと切れた。
(どうでもいい訳ねえじゃんかっ!)
俺の三蔵に触れようとした。ヘンな事しようとした。
何よりも大切な、自分の太陽。欲しくて、欲しくてたまらなくて。でもずっと我慢してたのに。三蔵が嫌がる事はしたくないから、ずっと耐えてきたのに。
どうして、俺はダメであいつは許されるんだよっ!!
「三蔵っ!!」
苛立った悟空が、思わず三蔵の手首をぐいっと掴んだ。
「悟空っ!」
突然のペットの暴挙に、三蔵が額に青筋を立てて怒声を上げる。しかし、その声は悟空の耳には届かなかった。
(・・・え?)
自分の手の中にある三蔵の白い手首。そのあまりの細さに、悟空は愕然となった。ちょっとでも力を込めれば、砕けてしまうのではないか?
確かに三蔵は男性にしては痩身だと思う。日頃から鍛えてはいるからひ弱な印象は受けないが、骨格自体が華奢なのだろう。でも、こんなにも三蔵の手は小さかっただろうか?数年前自分に差し伸べられたあの手は、とても大きいと感じたのに。今では悟空と殆んど変わらない。あと数年すれば、悟空の手が三蔵の手を包み込める程になるだろう。
ずっと自分の手を引いてくれた愛する人の手。それは今では、こんなにもやすやすと自分の手のひらに納まってしまうなんて・・・。
「離せ、悟空っ!」
三蔵の苦痛を滲ました声に、悟空は、はっとなる。知らず知らず三蔵の手首を握り締める手に、力を込めすぎていたようだ。血が通わなくなり始めたのか、人より白い肌が尚一層白く冷たくなっている。
「あ、ゴ、ゴメン・・・」
気づかぬうちに愛する人に対してした乱暴に、慌てて謝罪の言葉を口にして三蔵の手を解放した悟空の瞳に、痛みを堪えて眉を顰める三蔵が映る。普段は、鬼畜生臭で尊大な彼なのに。忌々しそうに、血の通わなくなった手首をゆっくりと擦るその姿が、何故かとても小さくみえる。その三蔵の頼りなげな姿に。悟空の中で、今まで心の奥底で堰き止めていた何かが、音を立てて崩れていった。
「ごくっ、てめえ何しやがるっ!!」
耳元で三蔵の悲鳴に近い叫び声が聞こえる。だけどそれは、どこか現実感を伴わなくて。悟空は半ば無意識に三蔵を抱き上げると、いささか乱暴にベッドの上に三蔵を放る。スプリングの効いたベッドに深く身体が沈んで、三蔵は軽い眩暈を起こす。その隙をみて、悟空が三蔵に圧し掛かってきた。
ここに至って三蔵は悟空が自分に何をしようとしているのか、遅まきながら気づき、さっと顔色を変えた。
「この、馬鹿猿! なに湧いてやがんだっ!」
自分が育てた小猿。その養い子に、何故にこんな目に合わされなくてはいけないのか。三蔵は必死になって身を捩って悟空から逃れようとするが、身体は小さくても所詮力は三蔵など足元にも及ばない。悟空の身体の下で、三蔵はぴくり、とも身動きが取れない。見せつけられた力の差と、ペットの猿に組み敷かれる屈辱に、三蔵の紫暗の瞳が鋭く悟空を射る。
「ざけんな! 死にてえのかっ! どけっ!」
「いやだっ!! どかないっ!」
「悟空っ!」
「あいつは、許されるんだろ? 三蔵に触れようとして、あいつは許されたんだろ!? なのに、なんで俺はダメなのっ!? 誰よりも三蔵が好きなのにっ。三蔵だけが、大切なのに! だから、触れないで、ずっと我慢してたのにっ!」
悟空が望月の瞳から、ぽろぽろ大粒の涙を零しながら訴えた。頬を伝う涙が、そのまま三蔵の白い頬を濡らしていく。
「好きだから、三蔵傷つけたくなくて。ずっと我慢してたのに・・・。ほんとは、三蔵の事、ずっと欲しくて。でも三蔵に触れたら、傍にいられなくなっちゃうから。三蔵、触れられるの嫌いだから。俺、ずっとペットのままでいようとしてたのに・・・。なのに、なのに・・・」
感極まって涙でぐちゃぐちゃになった真っ赤な顔を、三蔵の首筋に埋める。
「さんぞ、さんぞぉ」
まるで溺れる者が藁をもつかむ勢いで、三蔵にしがみつく。
失ったら、生きてはいけない。それは、依存とかじゃなくて。この世に生を受けたものが太陽がなくては生きてはいけないのと同じだ。自分のたったひとつの『太陽』。それを失いたくなくて、ずっと堪えてきたのに。どうしてこんな事になってしまったのか。なんで、自分を止める事が出来なくなってしまたのか。こんな事をして、三蔵を失うだけなのに。
泣きながら切羽つまった声で繰り返し自分の名を呼ぶ猿に、どうした事か、三蔵は小さくため息をつくと全身から力を抜いた。
「さんぞ・・・?」
抵抗しなくなった三蔵に不安を覚えて、悟空はおずおずと顔を上げて腕の中に拘束した愛しい人の白い面を覗き込む。怒らせてしまったのか? 呆れ果てて、このまま捨てられてしまうのではないだろうか?
しかしそんな小猿の危惧をよそに、悟空の瞳に映った三蔵には、怒りの表情はない。ただ、あるがままを受け入れるような静けさがあるだけだった。
「さんぞ・・・?」
不安になった悟空は恐る恐る、三蔵の白い頬に手を伸ばす。指先に触れた少し冷たい三蔵の肌を、まるで壊れ物のように、そっと撫でる。それを何度か繰り返し、やがて悟空の指は三蔵の少し厚みのある唇に辿り着く。そこに至っても三蔵は、抵抗を示さない。ただ、じっと紫暗の瞳をそらす事なく、目の前の悟空を見つめている。
止まらない。初めて指先に感じる愛する人の唇の柔らかさに、悟空の理性が弾け飛ぶ。
「三蔵っ!!」
悟空は、再び三蔵の身体が軋む程強く抱き締めると、そのまま三蔵の唇に自分の唇を押し当てて、性急に舌を絡めきつく吸い上げ、三蔵が呼吸する間も与えない程に貪りつくす。今の悟空には、三蔵以外何も見えない。
自分に組み敷かれた細い身体と、黄金に輝く魂だけが、悟空が認識できる全てだった。