第三楽章
寝付かれない。 昼間李厘と話した事が、どうしても気にかかって仕方がない。
悟空はむくり、と上半身を起こすと、枕を背もたれにしてふぅっと小さいため息を漏らした。
九月半ば。暦の上では秋とはいえ、まだまだ寝苦しい夜が続く。 本当ならクーラーをがんがんに利かせたいところだが、『ンなもんで身体冷やして、体調崩したらどーするっ。少しはスポーツ選手らしく、健康管理に気を使えっ、このボケ猿っ!』
と三蔵に、紫暗の目をぎんっと吊り上げて睨まれてしまっては、家主に逆らってクーラーを入れる訳にもいかない。 三蔵は快適温度に調整された寝室で寝ているクセしてズルイ、と思わなくもないが。まぁ、自分の身体の事を彼なりに心配してくれているのだと思えば、それなりに高温多湿の鬱陶しい日本の夏も、乗り越えられるだろう。……多分。
今晩は珍しく三蔵は悟空と夕食を共にした。だがそれはまるでお通夜のような静けさで、三蔵は悟空が何か喋ろうとすると、冷たい視線をぎろり、と向けて悟空を黙らせる。今までだったらそんな三蔵の無言の圧力にも屈する事なく、今日一日の出来事を少しでも三蔵に聞いて欲しい、とばかりに機関銃のように捲くし立てる悟空であったが。 流石に今日ばかりは三蔵の機嫌をこれ以上損ねたくはない。
『もしかしたら、三蔵にとって俺は、迷惑で足手纏いな存在なのかもしれない』
そんな考えが頭にこびりついて、どうしても離れなかったから。 ちろり、ちろりと上目遣いに三蔵を見ながら、味気ない食事が進んでいく。
実家にいた頃は、あんなにも温かくて楽しい食卓だったのに。三蔵は自分といるより、養父さんと一緒の方がずっと楽しかったんだろうか。あの『家族』の中に、自分は必要なかったのだろうか?
疑心暗鬼に囚われつつある心は、何もかも悪い事ばかりを肯定したくなってしまう。 早々に食事を終わらせると三蔵は『新しい譜面に目を通す』と言って、またしても自室に篭ってしまった。シャワーを浴びる為に部屋を出た以外は、あの後一度も部屋から出てこない。シャワーを浴びる時も、悟空が「風呂空いたよ」と声をかけた時は無視を決め込み、悟空が自分の部屋に入ったのを確認してから自室を出たようで。これはもう、明らかに避けられているとしか思えない。
どうして三蔵は、自分を避けるのだろう。 恋人同士の筈なのに、彼に触れる事はおろか顔を見る事も、声を聞く事も許してくれないなんて。気がつかないうちに、嫌われるような事をしたのだろうか? それともやっぱり……。
「邪魔なのかなぁ」
ぽつり、と口から零れた己の言葉に、心臓を握り潰されるような痛みを感じる。
考えてもみなかった。自分と三蔵の関係が、三蔵の演奏家生命を危うくさせるかもしれないなんて。 同性の、しかも戸籍上は兄弟である相手が恋人だなんて。
不道徳、だといって三蔵はクラシック界を追われるのだろうか? そういえば、以前人気タレントに同性の恋人がいる、とかいって凄いニュースになった事があった。恋人が風俗関係の仕事をしている、という噂の為にずっと同棲しているマンションをマスコミに張られて、ノイローゼ気味になった歌手もいた。
悟空は数年前に起きた騒ぎの時の、三蔵の憔悴振りを、今でもはっきり覚えている。もし自分と三蔵の関係が公になってしまったら、三蔵はまたあんな風にマスコミに追われて傷つけられるのだろうか? だからそれが嫌で、三蔵は自分との接触を極力避けているのだろうか? 自分に抱かれる事は勿論、顔も合わさないようにと思っているのだろうか?
(でも、だったらなんで俺の気持ち、受け入れてくれたの?)
自分の押せ押せラブコールに、三蔵が絆されたのだと思っていた。少しでも自分の事を想っていてくれて、だからこそ差し伸ばした自分の手を、握り返してくれたのだとばかり思っていた。 だけど自分のせいで(と、三蔵は思っているらしい)、悟空の高校入学の内定が取り消された事に負い目を感じて。だから仕方なく自分の告白を受け入れてくれたのだとしたら? そしてまた同じ騒動が起きてこれ以上悟空に負い目を感じたくないから、と演奏家としての活動を自ら狭めているのだとしたら?
(そんな事、ねえもん! 三蔵は、俺の事……)
愛してくれている、想ってくれている……。その言葉が、悟空は言えない。確信がない。
(さんぞぉ)
悟空は両の手のひらで顔を被った。 そんなつもりで告白したんじゃない。過去の出来事を盾に、三蔵を縛り付ける気なんかこれっぽっちも無いのに。大体あの一件は三蔵が悪いんじゃない。彼だって、被害者だ。
(贖罪のつもりで、傍にいて欲しいんじゃねぇよぉ)
ただ好きで、大好きで。 これからもずっと一緒にいたくて。 だから想いを告げたのに。
傍にいてさえくれれば、自分はいつも幸せで。 そしていつか、自分もそんな風に三蔵に幸せをプレゼントできるような、そんな存在になりたくて。 三蔵が自分の安らぎであるように、自分も三蔵にとって安心できる存在になりたかった。
(俺が望んだのは、そーゆー事なのに)
悟空の金色の瞳から、じわっと涙が滲む。声が漏れないようにと、嗚咽を噛み殺す。このマンションは音楽家が住むだけの事はあって各部屋防音に優れているから、隣室の三蔵に泣き声を聞かれる心配はないのだけれど。
(三蔵の声、聞きてぇ)
そう言えばここ数日、本当にまともな会話が成り立っていない。 大好きな三蔵の声。 低くてよく響く、少しだけ甘さを含んだ声。バイオリンの音色は人の声音に一番近い音を出す楽器だ、と悟空に教えてくれたのは誰だったのだろう。 あまり音楽とかに関心のない悟空が、バイオリンの音色を事の外好むのは、その音色が愛しい人の声を彷彿させるからかもしれない。
三蔵がバイオリンを習い始めたのは、光明に引き取られて間も無い頃だった。 ある日バイオリンケースを抱えて帰宅し、その日以来小学校の授業を終えると仕事中の養父に代わって幼稚園に悟空を迎えに行き、小さな悟空の手を引いてバイオリン教室に向かうのが三蔵の日課となった。
幼少の頃からやんちゃで一所にじっと出来ない悟空も、三蔵のレッスン中は大人しかった。何だかバイオリンの音は、とっても耳に馴染んでいるような気がしたし、真剣な眼差しで音楽に取り組む三蔵の姿は、幼い子供の目から見ても眩しい程に綺麗で。三蔵の指が生み出す音色は、まるで三蔵の声のように優しく悟空を包み込んでくれたから。
(俺のせいで、三蔵音楽出来なくなっちゃうのか?)
(俺、三蔵にとって迷惑な存在なのか?)
ぐるぐると、マイナスな考えだけが頭の中を渦巻く。三蔵に捨てられる、と思うだけで足元が今にも崩れてしまいそうだ。恐ろしい程の喪失感にぶるり、と全身に震えが走る。
いなくなってしまう、自分の傍から。輝く自分だけの眩しい『太陽』が。
彼がいてくれたからこそ、どんな時でも自分の心は満たされて、あったかだったのに。
(三蔵、顔見てぇ。声、聞きてぇよ)
ベッドの中でガタガタと震え出した悟空は、居ても立ってもいられず衝動に駆られて裸足のままベッドを抜け、三蔵の部屋に向かう。そして鍵のかかっていないドアノブをそっと回してドアを開けると、薄い隙間から三蔵の寝室に忍び込んだ。
実は今までにも度々こうして、三蔵の寝顔を見にやってきた。勿論不埒な行いをする為ではなく、すれ違いの続く愛しい人の安らかな寝顔を、少しの間でいいから見守りたいだけだった。
今もきっと、三蔵の顔さえ見れば、こんな不安はすぐに消えてしまう筈だから。
「三蔵」
ツインサイズの飾りの無いベッドと、備え付けのクローゼット。あとは楽譜などの入った本箱とオーディオ機器。ごちゃごちゃと物を置く事を嫌う三蔵の部屋は、いたってシンプルだ。 室内はモノトーンで統一されているので、カーテンを引かれた暗闇の室内で、悟空の目が捕らえる事が出来るのは、ベッドに横になった愛しい人の薄いタオルケットからはみ出た、夜目にも眩しい黄金の髪だけ。
「三蔵」
フローリングの床を滑るように三蔵のベッドに近づくと、彼を起こさないように細心の注意をはらって、顔半分まで被ったタオルケットをそっと剥ぎ取る。現れたのは闇の中に浮かび上がる、三蔵の白い寝顔。
こちらに背を向けて壁の方を向いて眠る三蔵の顔をもっとよく見たくて、悟空はそっとベッドに乗り上げると体を伸ばして愛する人の寝顔を覗き込む。 昼間の不機嫌そうな仏頂面からは想像もできない程、あどけなく幼ささえ感じさせる寝顔。ありきたりの言葉かもしれないが、寝顔だけは天使のようだ。もっとも悟空にとっては、昼間の眉間に皺を寄せた顔も、充分綺麗で天使に見えるが。
互いの顔をぎりぎりまで近づけると、三蔵の微かな寝息が聞こえる。
愛しくて、そんな小さな事がたまらなく愛しくて。悟空は心が求めるままに、三蔵の白い頬にそっとくちづける。 いくつも、いくつも、羽毛のように柔らかいくちづけを最愛の人の顔に降らせると、悟空は更に三蔵に覆い被さるようにした体を伸ばして、小さな寝息を立てている三蔵の柔らかな唇に己の唇を軽く押し当てた。
触れるだけの、淡いくちづけ。
「ん……」
その感触に眠りの浅い三蔵が小さく反応した。微かに寝返りを打つと、重い瞼をだるそうに上げる。現れた紫暗の瞳に映ったのは、視界いっぱいに広がる悟空の金瞳。
「なっ! てめっ……!」
驚きのあまり三蔵は情けなくも声を引っくり返らせて、慌ててベッドから飛び起きようとするが、自分に覆い被さるようにしている悟空の身体が邪魔で身動きが取れない。
(そういえばコイツ、たしか得意技は寝技だったな)
悟空自身、三蔵を押さえつけている気は毛頭ないが、そこは腐ってもオリンピック金メダル候補。相手を組み敷く体勢になると、自然と相手の動きを封じようと身体が動いてしまうのだろうか。などと、三蔵はピント外れな事をぼんやりと考える。
夜中に目覚めたら小猿に組み敷かれてキスされていた、という三蔵にとっては夢であって欲しい現実に脳が無意識のうちに現実逃避を図っているらしい。 しかしこれが夢でない証拠に、タオルケットの上から覆い被さる悟空の体重と、人より高いその体温を、三蔵は嫌という程に感じている。そしてまるで壊れ物を扱うかのようにそっと金糸に触れる、悟空の不器用そうな指先の感触も。
(まさか……)
仮にも悟空の気持ちを受け入れた以上、悟空の言葉を借りれば自分達は『恋人同士』だ。若い男が愛しい相手と同じ屋根の下で暮らしながら、指一本その身体に触れていないという方が、正直言って不自然だろう。 これまで何だかんだと理由をつけて悟空を交わし続けてきたが、もう限界なのだろうか?
悟空に惹かれている自分の本心と、悟空の為にもこれ以上深入りしてはいけないと、警告を発している理性。悟空が今本当に三蔵を求めてきたら、自分はその手を拒む事が出来るのだろうか?
しかし硬い表情のまま自分を見上げる三蔵をどう思ったのか、悟空はやけに大人びた―――そして泣きそうな―――笑みを浮べると、三蔵の前髪をかき上げて、現れた白磁のようになめらかな額に、小さくくちづけるとぼそり、と呟いた。
「ごめん、起こしちゃって。あ、ヘンな事しにきた訳じゃねーよ」
三蔵の紫暗の瞳の中に、微かな戸惑いと怯えの色をみつけたのだろうか? 悟空は幼げな顔を横にふるふる振って、決して三蔵の意志を無視して不埒な行いをしにきたのではない、と言い募る。
「ただ……」
「……なんだ?」
「三蔵の顔、見たくなった」
「こんな真夜中にか?」
「だって昼間も夜も、殆んど三蔵の顔、見れねえもん」
「そ、それは……」
別に三蔵を咎めている訳ではない、しかし三蔵自身耳に痛い言葉に、ついつい語気が弱くなる。だが悟空はそんな三蔵の様子を気に留めているようでもなく、ただ腕の中の愛しい人の存在が消えてしまわないかと怯えるかのように、柔らかな三蔵の頬に自分の手のひらを当ててそのぬくもりを確かめている。
「それに……、なんか三蔵が俺の傍からいなくなっちゃいそうで。気がついたら、俺、三蔵に捨てられていそうで」
怖かったんだ、と蚊の鳴くような小さな声で呟く悟空。 その表情は幼い頃、三蔵の指先が自分の手から離れた時によく見せた、迷子のように心細げな、今にも泣き出しそうな顔。
そんな悟空の表情に、三蔵はふぅっと身体の力を抜いた。気づかぬうちに、かなり緊張していたようだ。
表情の実に豊かな悟空。万年無愛想で無表情の自分とは正反対の、くるくると絶え間なく変化する表情に、実は三蔵はかなり弱い。 一片の曇りもない、まるで向日葵のように明るく温かい笑顔。 大きな金色の満月のような瞳をうるうるさせた、上目遣いのおねだりモード。 そして時折見せる、置いていかれるのを恐れる幼子のような、傷ついた悲しげな顔。
それ等を見ると、日頃悟空を厳しく育てたと自負していながら、実は結構悟空に甘い三蔵はついつい警戒心を和らげて、成長しつつある悟空の顔に、まだ三蔵に手を引かれて歩いていた頃の幼い日の面影を重ねてしまう。そして結局は悟空の願いを聞き入れてしまうのだ。
「……仕方ねぇな」
「え?」
三蔵はそっと自分に圧し掛かる悟空の肩を押して、己の上から小猿の身体を退けさせる。そして自分はベッドの端に少し身体を詰めると、タオルケットの端をぱらっと捲って悟空を促す。
「今晩だけだぞ」
「え、え?」
しかし三蔵の思惑が理解しきれない悟空は、目を白黒するだけでそのままベッド脇に立ち尽くす。そんな悟空に苛ついたのか、三蔵はちっと小さく舌打ちをすると、再び捲り上げたタオルケットを乱暴に頭まで被った。
「さ、三蔵?」
「嫌ならいいんだ。さっさと自分の部屋に帰れ! じろじろ見られてたら、寝れねーんだよっ! 鬱陶しいっ」
いきなり怒り出した三蔵を前に、ただオロオロと愛しい人を見下ろす悟空だったが、やがて不機嫌そうに背中を向けた三蔵の姿に、ぴんっとくるものがあった。
「もしかして……一緒に寝ても、いいって事?」
「……もう、よくねえ」
薄手のタオルケットの中から低い声が漏れた。拗ねているように思えるのは、気のせいだろうか? しかし折角の添い寝の許可をみすみす逃してしまって焦る悟空には、悲しいかな、そんな三蔵の様子に気づく余裕がない。先程までの憂いを帯びた顔はどこへやら、三蔵の枕元できゃんきゃん叫ぶ。
「うそーっ! なんでだよぉ。一緒に寝てえよぉ」
「一度言ってわかんねー奴は、知らん」
「だって三蔵から添い寝していい、なんて言ってくれるの、殆んどっていっていい位ないんだよっ? ンなすぐにわかんないよっ!」
「うるせえっ!」
くるり、と振り返った三蔵が、目にも止まらぬ早業で、サイドテーブルに置かれたままのスコアを丸めると、そのまま煩い小猿の頭に、容赦ない一撃を食らわせた。
すぱぱぱ―――んっ!
「あぅ……」
仮にも音楽家が、スコアをそんな風に利用していいのか、とか。なんで丸めただけのスコアで、あんなに凄まじい破壊力が生まれるのか、とか。言いたい事は山のようにあるが。
悟空の口から出てくるのは痛みを堪える情けない呻き声と。
「……三蔵、いい?」
上目遣いも交えた、おねだりの言葉だけ。
「……勝手にしろ」
「うんっ」
所詮悟空のおねだりを退ける事の出来ない三蔵は、しばし悟空の金瞳をぎんっと睨みつけた後、諦めたように小さなため息をつきながら呟いた。 三蔵が空けてくれた一人分のスペースにもそもそと潜り込むと、悟空は自分に背を向けたままの愛しい人の痩躯をそっと抱き締める。
「おい」
「わかってる。こうしているだけ」
三蔵がこの腕の中からいなくならないように。朝目が覚めた時にも、自分の腕の中にいてくれるように。今はそれだけで、充分だから。
腕の中に感じる三蔵の体温に、先程までの悟空の不安が少しづつ消えていく。けれど一度芽生えた不安感は、なかなか拭い去る事が出来なくて。
「三蔵」
「あ?」
「傍にいてよね。三蔵の邪魔はしねーから、俺の傍にいてよね」
「……おい、悟空?」
ぎゅっと強い力で自分を抱き締めて、無言で肩口に顔を埋めてくる悟空。声が少し震えているのは……泣いているのか?
少しは成長したかと思っても、こういう所は少しもガキの頃と変っていない。少しでも三蔵の姿を見失うと、途方に暮れて泣き出す子供。 三蔵はくるり、と身体を悟空に向き直すと、そっとその細い腕で悟空の背中を抱いてやる。
「さんぞ……?」
「うるせえ。さっさと寝ろ」
ぎゅっと三蔵の胸に頭を押し付けられる。薄い胸板から伝わるのは、愛しい人のぬくもりと優しい鼓動。その規則正しい音は、まるで三蔵の奏でるバイオリンの音色のように、悟空の心を落ち着かせてくれる。
「悟空……寝たのか?」
しばらくすると、悟空の唇から穏やかな寝息が聞こえてきた。 三蔵はそっと悟空の栗色の髪をその細い指で梳いてやる。眠っていても心地良いと感じるのか、悟空は寝惚けながらも子犬のように三蔵の胸にすりすりと頬を寄せる。
「傍にいて、か……」
本当にそれを望んでいるのは、悟空ではなく自分なのかもしれない。 三蔵は肺に溜まった息を小さく吐き出すと、暗闇にぼんやりと視線を漂わせながら、飽く事なく悟空の髪を梳き続けていた。
あの夜から数日は、表面上は何事もなく穏やかに時は過ぎていった。
あれからも努めて悟空は、無暗に三蔵の身体を求めるような事はせず、ただ触れるだけの優しいキスや添い寝だけを望むようになった。 三蔵の気性を考えたら、急いで事を運べば却って三蔵を傷つけて、嫌われてしまうだけかもしれない。それでなくても三蔵は潔癖症で、事恋愛に関しては超オクテなのだから。ゆっくりと、もっと三蔵の気持ちを大切に接していこう。そう悟空は、自分に言い聞かせる。
そしてはじめの内はそんな悟空を警戒していたが、やがて「三蔵に触れてないと、三蔵どっか行っちゃいそうなんだもん」という悲しげな上目遣いの訴えに、結局は折れて悟空の願いを聞き入れてしまう三蔵。 性欲を感じさせない穏やかな触れ合いは、まるで時間が光明と共に暮らしていたあの頃に戻ったような錯覚を感じさせる。
三蔵が(本人曰く)不本意ながら悟空の告白を受け入れたその日からギクシャクしていた関係が、少しづつではあるが円滑になっていく。 このままいけば鈍足ではあっても、互いの心が寄り添っていけるようになるかもしれない。三蔵が今度こそ本当に、自分の気持ちを心から受け止めてくれるかもしれない。
そう、『三蔵にとって自分は邪魔者で、三蔵の音楽活動の足手纏いになるだけの存在』というのも、単なる思い過ごしなのかもしれないのだから……。
そう楽観的希望を見出した悟空が、それは自分だけが見た甘い夢でしかなかったのだ、と思わざるを得ない出来事に遭遇したのは、三蔵の記事が音楽雑誌に掲載されてから一ヶ月以上も経ってからの事だった。