あの日から数日が過ぎた。
あれ以来、悟空は一度も三蔵の前に姿を見せない。腹立ち紛れに寺院を飛び出したのか、と思えばそういう訳でもなく、三蔵の目の届かない物置や、床下などで寝起きしているらしい。
らしい、というのは実際に三蔵が見た訳でも、目撃者がいた訳でもなく、ただそちらから『声』が聞こえるからである。自分の猿が、三蔵を案じ、心配し、怒る、声なき声が・・・。
心配したのに、すっげー心配したのにっ! 死ぬ程心配したのにっ!!
うるせえ、誰もてめーに、心配してくれなんて、頼んだ覚えはねーんだよ。
時を選ばず煩い程に頭の中に響く声に、無意識に三蔵は呟いた。
・・・ムカツク。
最後に心の中で呟いた「ムカツク」という言葉が、悟空に向けられたものでない事は、三蔵自身自覚があった。
そう、腹が立つのは自分自身に対してだ。これほどまでに弱い自分。誰をも必要としない筈なのに。そう誓った筈なのに、こんなにも悟空に支えられている自分に。
亡き師の形見の経文を探し始めて、何年経ったのだろうか。情報網の中枢ともいえるこの長安の大寺院に居を構えてからも、それらしき噂を聞けば危険も顧みずひとりで現地に赴いた。
例え他の公務には「連れてけコール」を華々しく展開しては、三蔵のあとを健気に供した小猿も、経文探しには決して同行させなかった。それは恐らく、経文を奪い返すのに悟空の手を借りたくない、という三蔵のプライドがそうさせていたのだろう。自覚があったから。
悟空を拾って、あれの真っ直ぐで曇りのない愛情を、一身にこの身にこの心に受けて、いつの間にか悟空に身体だけでなく、心まで開こうとしている自分がいる事を。
「愛している」と煩い猿に、仕方なく身体を許したつもりだったのに、知らないうちにあの猿に囚われていた。
あれが、傍にいると安心する。あれのぬくもりは、心地良い。あの猿が「愛している」と囁く度に、それを心から信じてしまいたくなる自分の心を、三蔵自身が誰よりも信じられなかった。
そんな他人を必要とする自分の「弱さ」に吐き気がした。けれど、悟空を求める自分の心を止める事が出来ない。そんな自分の弱さを叱咤するかのように、意地でも経文探しに悟空の手を借りたくはなかった。これは、自分自身の問題なのだからと。だから、今夜も悟空に黙って部屋を抜け出たのだ。
『数年前に盗まれた、世界に数える程しかない、尊い経文』が、闇市に流れてきている。
そんな情報が三蔵の耳に入ったのは、つい3日前だった。この大寺院に着任してから、経文の行方を得る為に正規のルートは勿論、裏の世界にも情報網を張った三蔵だったが、そのひとつに引っかかった情報の中のひとつだった。真偽の程はかなり怪しかったが、盗まれたとされる時期が合う事と、『世界に数える程しかない』という謳い文句に、一応は自分で確かめようと情報の持ち主と会う為にあの歓楽街に赴いたのだが。
悲しいかな、予想通り見込み外れの情報だった上に、三蔵の一際目立つに美貌とカリスマ性に、善からぬ連中に絡まれる結果となってしまった。目立たぬようにと珍しく普段着で行った事も、全くといっていい程、功を奏さなかった。大人数とはいえ、たかが雑魚共。相手にもなりはしない、と高をくくっていたのも油断の原因だろう。半数の男をのした所で、愛用のS&Wを奪われてしまった。
肉弾戦になれば、たったひとりの上、体格的にも劣る三蔵の分が悪い。
(嬲り者にされた上、薬漬けにされて売られるか?)
最悪の場合を想定して、三蔵が忌々しげに舌打ちをしたその瞬間、その『声』が突然頭の中に響いてきた。
狂おしいまでに、自分の名を呼び続ける、悟空の声。
それを心で感じとった瞬間、云い様のない安堵感が胸の中に広がり、三蔵はそんな己の心に動揺を隠しきれなかった。必死の形相で駆け寄る猿の姿に、ほっとした。助けが来た事に安堵したのでは、ない。『悟空が』来た事に、安堵したのだ。
どこまで自分は弱くなっていくのか?こんなにも、悟空を必要としているなんて。
どんな時でも、あの猿は必ず自分のもとに駆けつけると、心のどこかでそう信じている自分がいる。あいつは、決して自分の傍を離れないと。
そんな自分の弱さと本音に、吐き気がする。こんなのは、『自分』ではない。自分の筈がない。
あんなガキで小猿の悟空に抱かれているという事実にさえ、飼い主で年上のプライドが傷つけられているのに。それさえも目を瞑ってしまう自分がいるなんて。それでも、悟空を求めている自分がいるなんて。
そんな自分が腹立だしい。苛ついて、仕方ない。
・・・だから、悟空にキツイ言葉を浴びせ掛けてしまった。自分の中で整理しきれないモヤモヤを、増長していく自分の弱さへの怒りを、悟空にぶつけたのだ。ただの八つ当たりに過ぎない。
あんなにも、自分の事を案じていた悟空に、酷い事を言った。純粋に、三蔵の身を案じる悟空に、彼の愛情を踏み躙るような暴言を吐いたのだ。
(ンな事、今回が初めてな訳じゃねえ。いつだって、あの猿は煩く俺に付き纏って。その度に俺にどつかれて、どやされて・・・)
今回の暴言が、いつもと違う事は三蔵も判っている。
あんなに怒った悟空を見たのは、初めてだ。そう、例えどんなに自分自身がハリセンでボコボコにされようが、無慈悲に足蹴りを喰らわされようが、それでも嘗て一度も三蔵に力で反撃した事のない悟空が、初めて三蔵に手を上げたのだ。
力で三蔵に勝っている事を自覚しているからこそ、今まで一度たりとも三蔵に、その力を振るわなかったあの悟空が。
頬に、あの時の熱い痛みが甦る。その痛みが、悟空の心の痛みと嘆きを嫌という程三蔵に伝える。
だからといって、今更悟空に何といえばいいと言うのだ。あれ以来、顔も見せずに自分の事を避けている猿に。
(悪かったと、今更俺に言えと・・・?)
光明三蔵がいた。
その前で、小さく項垂れている幼い自分の姿。
ああ、そうだ。あれはまだ、『江流』の名で呼ばれていた頃の自分。
何が原因かはもう覚えてはいないが、一度だけ酷く光明三蔵に叱られた記憶がある。その時の事を夢に見ているのだと、三蔵はぼんやりと思った。
叱られた、とは言っても、声を荒げて怒鳴られた訳でもなければ、勿論体罰を受けた訳でもない。ただあのおっとりとした師匠が、酷く厳しい―――けれど、少し悲しげな表情で自分をみつめていたことだけは、はっきりと覚えている。
その時、師がただ怒っている訳ではなく、とても心を痛めている事は、幼い江流にもはっきりと判った。
『貴方が憎いから、嫌いだから怒るのではありませんよ。貴方の事が大切だから、心配だから、怒るんです。どうでもよければ、何もいいはしませんよ』
大きな手のひらが、江流の頭をそっと撫でた。あの温かさに、師の心に、瞳の奥がじわっと熱くなる。
そうだ、確かあの時年長の小坊主達に呼び出されて、折檻を受けたのだ。
寺の兄弟子達の嫌がらせは、今に始まった事ではない。そんな事に師匠をいちいち巻き込む事は、ないと思っていた。あの程度の奴等、自分ひとりでどうにでもなる、と思っていたし、実際今までも自分の身は己ひとりで守ってきた。
それに、もし自分の身に何かあっても所詮は厄介者。悲しむ人間がいる訳でもないし。そう卑屈になっていたのかもしれない。
「危険、と判っているものに自分から近づく必要など、ないのですよ。今回の事は、避けようと思えば出来た筈ですね、江流」
確かに売られた喧嘩を、いつになく買ってしまった自覚はあっただけに反論の余地はない。
自分の力を過信し過ぎていたのかもしれない。誰の力も借りなくても、自分は大丈夫なのだと。そして所詮、自分を守れるのは、自分しかいないのだから、と。そんな己を支えるプライドが、徒党を組まなければ何も出来ない兄弟子達を見下して、避けて通れたトラブルに足を突っ込む事になってしまったのだ。
そんな負けん気の強い養い子に、光明三蔵は困ったような表情で語りかける。
「貴方の身を、心から案じている者がいる事を忘れないでください。貴方にもしもの事があったら、悲しむ人間はちゃんといるんですよ」
師匠の言葉に、江流はびくっと肩を揺らす。
師匠や朱泱といった、数少なくても確かに彼を思ってくれている人達の心を、省みようとしない己の非を見抜かれた事に、江流は唇を噛んで俯いた。
「心から心配し、愛しいと思うからこそ、怒るのですよ。本当にあなたが大切だから」
あの猿も、そんな気持ちで俺の事を怒ったんだろうか。
夢の中で光明三蔵を前に、江流―――三蔵は、ぼんやりとそんな事を考えた。
今まで三蔵が悟空を怒る事はあっても、その逆という事は殆んどといっていい程なかった。あるとすれば、今回のように三蔵が悟空のいない所で危険な目に遭った時くらいだろうが。それも、片手で足りる程しかない出来事だし、『何で、俺を一緒に連れて行ってくれなかったんだよ!』と、喧しく抗議するのが精々だった。
あんな風に、宝物のように大切にしている三蔵に手を上げて、涙を流して怒っていた悟空。三蔵の身をただ純粋に案じていたのに、その愛情を踏み躙られた事に憤っていた小猿。猿の心を傷つけたという自覚は充分にある。
(だが、俺が心配してくれと頼んだ訳じゃ、ねえ。あんな、ガキでペットな猿に心配される程、落ちぶれちゃいねえ)
「でも本当は、気に病む事んでいるんでしょう。素直におなりなさい」
まるでそんな養い子の心の声を聞いたかのように、光明三蔵はいつもと変らぬおっとりとした口調で、そう三蔵に言い聞かせる。
師匠の前にいる自分は、もう嘗ての江流ではない。いつの間にか三蔵は今の姿に戻っていた。
「お師匠様・・・」
「私には、あんなに素直に『すみませんでした』といえるあなたが、どうしてあの少年には、その一言が言えないんですか? 後悔しているんでしょ? 彼の愛情を踏み躙るような発言をした事を」
「べ、別に俺は、あの猿なんかと・・・」
「江流」
大きな手が、まるで幼子にするように三蔵の頭をそっと撫でる。
「私があなたの事をいつも案じていたように、あなたも彼の事を口にはしないけれど、案じていますね。そして、あなたが私の事をいつも気にかけてくれていたように、あの少年も、いつもあなたの事だけを思っているのですよ」
例えそれが、親子の愛情と恋愛感情の違いがあったとしても。大切な人の身を何よりも案じる気持ちに変りはない。
「あなたは、本当はとても優しい子ですから。ただ、素直になれないだけなんですよね」
人から与えられる好意に不慣れな上に、並外れて高いプライドが養い子でペットの小猿に守られた、という事実を否定したいと願ってしまう。
「本当は、彼の貴方への曇りない真っ直ぐな愛情も、判っているのでしょ?」
そして、それを受け入れていなければ、あんなにも貴方を求めるあの少年を傍に置くような事は、しませんものね。
「江流、素直におなりなさい。失ってから後悔するのでは、遅いですよ。それでは、また貴方の心の傷を大きくするだけですから」
「お師匠さ・・・」
と、急に目の前の風景がぐにゃり、と歪んだ。
しとしと、と降り続く雨の音―――。
さっきまでは聞こえなかったのに。いつの間に振り出したのだろう。底冷えするような寒さに、三蔵は思わず自分の身体を両腕で抱き締める。
「お師匠様・・・?」
そうだ、あの方はどこに行かれたんだ。つい今しがたまで自分の目の前で、自分に語りかけてくださっていたのに。あんな馬鹿猿との事を、心にかけていてくださったというのに。
またひとりでどこか、ふらふらと歩いていらっしゃるのだろうか?最近は何かと金山寺の周囲も物騒になってきたから、ひとり歩きは危険だ、と先日もくどい位に話したばかりだというのに。
そう思いながら、三蔵は暗闇の中を師を求めて彷徨い歩く。
嫌な気分だ。何か、胸の奥から浸食さえていくような、不安な気持ち。
お師匠様は、大丈夫だろうか? 何か事件に巻き込まれているんじゃないだろうか?
夢の中、三蔵は湧き上がる焦りと苛立ちに舌打ちしながら、尚も師匠の姿を求める。
耳について離れない、雨音。
神経を逆なでる、ムカツク音だ。あれも苛立ちの原因のひとつなのだろうか。
指先まで凍えそうな寒さの中、ふと、三蔵は水溜りのようなものに足をとられて立ち止まった。
「・・・っ!」
自分の足元を濡らすのは、夥しい血溜まり―――。
そして、その先には―――
そう、『あの夜』の姿そのままに、経文を奪われ惨殺された師の姿が。
「・・・あ・・・」
さっと、血の気が引く。
体内の血液が全て凍ってしまいそうだ。無様なまでに身体が小刻みに震えて、足元が一瞬のうちに崩れ落ちる錯覚を覚えた。
「お、師匠・・・さま」
大切な者を失う事の、恐ろしいまでの恐怖感。
叫び声を上げる事もできずに、ただ命を失い抜け殻と化した師匠を、凍りついた表情のまま凝視する。
寒くて、雨音が耳について・・・。
ガンガンと耳鳴りがする。目の前の出来事を、頭が認識する事を拒んでいるのだろうか。
そうだ、これは夢だ。10年前の、夢に過ぎない。
だが、あまりに激しい喪失感に、夢の中で狂ってしまう事もできるのだろうか・・・?