頭が痛い。
三蔵はベッドに横になったまま、深いため息をついた。もともと眠りは浅い方だが、ここ一ヶ月近くまともに眠っていない。身体は休息を求めているのに、神経が昂ぶっているのが自分でもよくわかる。
(あいつの、せいだ)
あいつのせいで、余計な物思いをしなくてはならないのだ。
あの昏睡から目覚めた時、真っ先に視界に飛び込んできたのは、涙で顔をぐちゃぐちゃにしたマヌケ面。大きな金色の瞳からは大粒の涙がぽろぽろ零れていて、その表情には安堵と喜びが滲み出ていた。目の下にはくっきりと青黒いクマが出来ており、おそらく自分が眠り続けていた間、殆んど休む事なく付きっきりで看病していたに違いない。
(鬱陶しいんだよ・・・)
三蔵は痛むこめかみに手のひらを添えて、再び深いため息をついた。
いつでも、どんな時でも自分に纏わりついて離れなくて。愛しそうに、まるで宝物でも扱うように、自分に接していたあの少年。自分が彼を覚えていないと言った時は、それこそこの世の終わりのように傷ついた目をしたが。
それでも侍医に言わせると、自分が落ち込んで暗い気分でいたら、病み上がりの三蔵の負担になるからと、ことさら三蔵の前では明るく振舞っていたらしい。
(てめぇ、誰なんだよ)
数年前に三蔵が拾ってきた妖怪の子供、だという事は侍医や寺の僧侶から聞いた。そして、どうもあの少年を可愛がっているらしい老医師から、自分とあの妖怪の間に肉の関係があるという事も。
(馬鹿馬鹿しい)
信じられなかった。誰をも愛さない、必要としない、この自分がなんであんなガキと。
他人に触れられる事を厭う自分が、事もあろうに同性の年下の子供に抱かれているなんて。
事実あの少年の乱暴な行為には、確かに嫌悪を感じた。荒々しく自分の身体を開く悟空の手に、愛しさを感じる事などできなかった。鳥肌が立ち、震えさえ起きたのは他の輩に触れられた時の反応と何ら変わる事はない。
しかし、それと同時に己の身体が行為に慣れていたのも、自分自身ごまかしきれない事実だった。心は悟空を拒絶しながらも、身体は確かに悟空を知り、受け入れていた。
(あんな、ガキ・・・)
自分を振り回し、あまつさえ無理矢理身体を奪った、憎むべき相手。これほどの屈辱と恥辱を自分に与えたというのに。なのに目を閉じると、傷ついたような、けれど心底愛しげに自分をみつめる黄金の瞳が、瞼の裏に浮かぶ。包み込むような、慈しむような。そしてどこまでも温かい黄金の瞳。
あんな眼差しを自分に向けた人間は、いまだ嘗てひとりもいない。いや、亡き師も確かに自分を慈しむ眼差しを注いでくれはしたが、あれはどこまでも肉親の情に近いものだ。しかし、悟空の瞳の奥には、確かに自分に対する恋情がはっきりと見てとれる。
愛しくて、愛しくて、たまらなく愛しくて・・・。
そんな馴染みのない眼差しを向けられて、居心地の悪さとそれに伴う苛立ちを感じると共に、あの真っ直ぐに自分だけに向けられる愛情を感じる時、自分の中の何かがごっそりと抜け落ちている錯覚を覚えずにはいられない。失われた7年間の記憶をさして惜しむ気持ちもない三蔵なのに、何故かひとつだけ欠けたピースの存在が自分をこれ以上ないくらいに苛立たせる。
(てめぇ、なのか?)
失われたピースは、本当に悟空なのだろうか?この自分がこれほどまでに喪失感を覚える程の、存在だというのだろうか、あの少年が?
師を喪って以来、大切なものは決して持つまいと誓った自分なのに?
永遠なんて、ありえない。例え手にしても、いつか失うかもしれないのだから。
(失うくれーなら、最初からンなもん、いらねぇんだよ)
三蔵は乱暴に布団を頭まで被り、己の身体を両腕で抱き締め、胎児のように身体を丸める。寒くて仕方がない。身体が寒いのか、それとも心がぬくもりを求めているのか。
(ンな事ある筈ねぇ!)
この自分が誰かのぬくもりを求めるなど、ある筈がないのだ。それなのに浮かぶのは、悟空の温かな眼差し。そしてこの身体が知る筈のない、誰かの肌のぬくもり。
―――それは涙が零れそうな程に優しいぬくもりだった。
「さんぞが、また倒れたってっ!?」
老侍医の使いとして悟浄宅を訪れた小坊主に、掴みかからんばかりの勢いで悟空が問いただした。
「は、はい。この所ゆっくりお休みになられていないご様子で」
戸口に立つまだ12、3歳程の少年は、悟空の剣幕に腰が引けながらも、コクコクと頷きながら悟空の後ろに立つ八戒に、助けを求めるような視線を投げかけた。
「抵抗力が落ちてたんでしょうね。先日の傷も、まだ完全に癒えた訳ではないんでしょ?」
青褪めた顔できゅっと唇を噛む悟空の肩を、そっと八戒が支えてやる。
あの晩、無理矢理三蔵を抱いて以来、悟空は悟浄達の家に居候の身となっていた。意識を手放すまで無茶苦茶に悟空を受け入れさせられた三蔵が、目覚めるなり悟空にぶつけた言葉。
『出て行け。2度と俺の前に、その面見せるんじゃねぇ!』
嫌だと、三蔵の傍から離れたくないと。いつものように、三蔵に泣き縋る事さえ、できなかった。自分がなにをしたのか、悟空自身が一番よくわかっていたから。
あれはあきらかに、強姦だ。自分の事を全く覚えていない三蔵を、あんなに自分を拒み抵抗した三蔵を、無理矢理抱いてしまった。傷つけてしまった。
一夜明けて目覚めてみれば、血の気の引いた青白い顔で苦しい眠りにつく、愛しい人の姿。白い内股に残る、乾いた赤い幾筋もの線は、間違いなく自分が流させた三蔵の血だ。
今まで一度だってあんな乱暴に、三蔵の気持ちを無視して、彼を抱いた事はなかったのに。大切な、大切な自分の『太陽』。三蔵が傷つくくらいなら、自分が傷つく方がずっとマシだと。いつか三蔵に背中を預けてもらえるくらいの男になって、あの孤高な魂を少しでも支え、癒す事ができたらと。そういつも願っていたのに。
一時の感情に流されて、自分を抑える事ができなかった。最愛の人を、あんな形で傷つけてしまった。
だから・・・。もう三蔵の傍にいる資格などないと。黙って三蔵の言葉に従い寺院を出て、行く宛てもなくただぼんやりと彷徨っていた悟空を運良く見つけたのが、三蔵の見舞いに訪れる途中の悟浄と八戒だった。勧められるままに悟空はふたりの家に居着き、八戒の手伝いをしながら時折遠い目をして、思いに耽る日々が続いていたが。
「で、具合は相当悪いんですか?」
俯いたまま、身動ぎひとつしない悟空に代わり、使いの小坊主に八戒が問い掛ける。
「お医者様のお話では、毒の方はもう大丈夫だそうですが」
「寝不足が祟って、抵抗力が落ちきってるってか?」
ハイライトを咥えたままの悟浄が、部屋の奥から姿を現す。話の内容は、狭い家故筒抜けだったようだ。
「はい、その為の発熱ではないかと」
「それで、その三蔵の主治医の方が、悟空に来るようにと?」
「はい。僧都様方はご遠慮していただきたいと、申されていましたが・・・」
元々悟空を毛嫌いしていた、寺院の連中だ。なにやら理由は判らぬが、三蔵の元からこのやっかいな拾い子が姿を消した事に、狂喜乱舞している。何故今更、寺院の敷居を跨がせる必要があるのか、と散々反対の意を唱えたのだが。
「三蔵様の看護は、孫悟空が適任、と仰られて」
馴染みの、深い皺を刻んだ温厚そうな顔が脳裏に浮かぶ。口癖のように言ってくれた。三蔵様の看護は、孫悟空が一番上手だ、と。気難しく、他人に身の回りの世話をされる事を厭う三蔵が、何だかんだと言いながらも悟空の看護だけは素直に受けるのだ、と。小さな目を細めて、いつもそう言ってくれたが・・・。
「・・・ダメだよ」
「悟空?」
掠れた声で小さくそう呟く悟空の顔を、八戒が背後から覗き込む。
「さんぞが、2度と傍に寄るなって言ったから。だから、行けねぇ」
「でも、医者が来いって言ってんだろーが」
「だって・・・」
悟浄の言葉に、悟空は口ごもる。あの老医師は、知らないから。自分がどんなに酷い事を三蔵にしたのか。自分が三蔵の傍にいたら、怒ってもっともっと具合が悪くなるかもしれないのに。
「だから・・・」
「とりあえず、行ってみたらどうですか?」
「八戒・・・」
優しく背中を押す声に、悟空は望月の瞳で温かく微笑むこの友人を見上げる。
「三蔵の容態も気がかりでしょ? 行ってみて、お医者様と話してみて、やはり三蔵に会わない方がいい、と判断したら帰ってきればいいじゃないですか」
「でも・・・」
尚も決心のつかない悟空を後押しするかのように、八戒は戸口に立ったままの少年僧に視線を向ける。
「彼だってこんな夜中に使いに出されて、手ぶらで帰る訳にも行かないでしょ?」
「お医者様は、必ず孫悟空を連れて帰るよう、申されました」
ここまで来て役目を果たさずに帰るのは無駄足と思ったのか、悟空自身あまり見覚えのないこの新入りらしき小坊主は、きっぱりと八戒の深緑の瞳を見つめて言い切った。
「ね、悟空?」
「悟空」
自分の名を呼んで背中を押す声に、グラグラと心が動く。悟空の金色の瞳に薄っすらと涙が浮かび、傍にいる者ですら聞き取れない程の小さな声でそっと呟いた。
さんぞ、会いたいよ・・・。せめて、もう一度だけでも。
「さんぞ?」
暗く静まり返った三蔵の寝室にそっと足を踏み入れた悟空は、ベッドの上に白く浮かぶ愛しい人の姿を見つけた。足音を立てないよう忍び足でそっと枕もとに近寄った悟空は、跪き、浅い眠りの中を漂う三蔵を起こないよう、おずおずと愛する人の金糸の髪に手を伸ばす。
久ぶりに触れる三蔵の髪は、しっとりと汗で湿り、彼の熱の高さを悟空に伝える。苦しげな吐息に、悟空の心臓は素手で ぎゅっと握り込まれたような痛みを覚えた。
「ごめん」
三蔵を守りきれなかった上に、今こうして三蔵が病いの床に臥せっているのも、全て自分のせいだ。病み上がりの三蔵にあんな乱暴をして、負担をかけて、心も身体も傷つけたから。
「ホントにごめんね」
悟空のまあるい頬を、大粒の涙がコロコロと零れ落ちる。と、今まで身じろぎひとつせず仰臥していた三蔵の肩がぴくり、と動き、白く細い指先が何かを求めるように虚空をさ迷う。
「時々無意識のうちに、ああしていらっしゃる。貴方を探しているのでしょう。孫悟空」
ずっと背後でふたりの様子を見守っていた侍医が、小声で悟空に告げた。悟空は一瞬大きく瞳を見開いて年老いた医者を見上げたが、やがて悲しげに瞼を伏せると、力なく首を横に振った。
「んな筈ねぇよ。さんぞは俺の事忘れてるし、俺の事憎んでるもん」
「とりあえずは、貴方にお任せいたしますよ。孫悟空」
しかしそんな悟空の言葉を右から左に流して、『何かありましたら、隣の部屋で控えておりますので』との言葉を残して、静かに病人の寝室を後にする。
三蔵とふたりきりになった悟空は、身の置き所がなく体を縮込ませたまま、ベッド脇に跪いたままだ。暫らくそのまま三蔵の苦しげな寝顔を眺めていたが、やがて熱い息を吐く唇が熱でカサカサに乾いている事に気がついた。
「喉、渇いてる・・・よな」
小さくひとりごちると、悟空はそっとサイドテーブルに置かれた水差しを取ると、器用に三蔵の少しひび割れした肉厚の唇に吸い口を含ませる。流石に今回は口移しをする訳にはいかない。浅い眠りの中を漂う三蔵は、それでも無意識のうちに水分を求めて、素直に与えられたものをこくり、と小さく喉を鳴らして嚥下する。
手馴れた様子で乾いたタオルで額に浮かぶ玉のような汗を拭こうとして、悟空は次の瞬間三蔵の前髪をかき上げようとした手を、空中で止めた。
今の三蔵は自分の手を受け入れてくれている三蔵ではない。接触嫌悪そのままに、悟空の手を拒んでいる。ましてや、自分は無理強いをして三蔵の身体を奪ったのだ。自分が三蔵に触れた時の、あの嫌悪感に満ちた表情が忘れられない。今また自分が例え看護の為とはいえ三蔵に触れたら、三蔵が嫌がるのではないだろうか?そう思うと、無暗に三蔵に触れる事ができない。
それに、あんな風に汚らわしいものにでも触れられたような眼差しを向けられる事に、悟空自身耐え切れない。きゅっと、唇を噛み締めると悟空はタオルをテーブルに戻して、隣室の侍医を呼びに行こうとする。やはり今の自分は三蔵の看病をするのに、相応しくないから。
しかし、くるり、と三蔵に背を向けた悟空は、次の瞬間手首をいきなりぐっと握り締められて、口から心臓が飛び出す程の衝撃を受けた。
「なっ、なにっ!?」
慌てて視線を自分の手首に落とすと―――その金瞳に映ったのは、己の手首をしっかりと握り締める愛しい人の白く細い指。それは、眠っている病人とは思えない程の強さで、自分の傍から離れる事を許さないかのようだ。
「さ、さんぞっ?」
予想外の三蔵の行動に悟空は思わず声を引っくり返らせて、愛する人の名を大声で呼んでしまう。しまった、と空いた片方の手で自分の口を塞ぐが、その行為はすでに遅く、悟空の上げた声に三蔵の瞼がぴくり、と痙攣する。
悟空が背中に冷たい汗を感じ、息を詰めて愛する人の覚醒を見守る中、三蔵はゆっくりと重い瞼を上げる。その中から現れたのは、悟空が愛してやまない美しい紫色の宝石。
「あ・・・?」
まだ完全に覚醒しきっていないのか、三蔵はぼんやりと視線を空中に泳がす。そしてその視線がある一点で止まった。「おまえ・・・」
「あ、ご、ごめん。起こしちゃって・・・」
もごもごと、口ごもりながら謝罪するのは、見覚えのある少年の顔。何故こいつがここにいるのか。
あの日以来、自分の前から、自分の言いつけ通り姿を消した筈なのに。そんな三蔵の疑問に悟空も気付いたのだろう。「あ、あのさ。さんぞが倒れたって聞いて。だけど、やっぱ俺が傍にいねぇ方がいいよな。ごめんな」
自分が言った言葉に内心、心臓を鋭い刃物で切り裂かれるような痛みを覚えながら、それでも悟空はその幼げな顔に無理矢理笑顔を浮かべて
「すぐ、帰るから。ごめんな」
と早口で呟いた。そしてそう言いながら、そっとさり気ない仕草で三蔵の指を自分の手首から離す。そこで初めて三蔵は、己が悟空の手を掴んでいる事に気がつき、驚愕で一気に目が覚めた。
この自分が、他人の手を取ってしまうなんて。無意識のうちに、まるで離れていくのを引き止めるかのように、悟空の手を掴んでいるなんて。そしてその事に、いくら眠っていたからとはいえ、周囲の気配に聡い自分が気付きもしなかったなんて。
あまりの事に自失呆然としている三蔵をどう思ったのか。悲しそうに瞼を伏せると、再びくるり、と三蔵に背を向けて部屋から出て行こうとする。と、思わず三蔵の白い指先が、再び今度は悟空のシャツの端をぎゅっと掴んだ。
「さん・・ぞ?」
「あ・・・」
思ってもみなかった自分の行動に、三蔵の動揺は増すばかりだ。これではまるで、悟空が自分の傍を離れていくのを嫌がっている、と悟空に言っているようなものではないか。
「え、っと。さんぞ・・・あの・・・」
悟空も三蔵の行動の真意がつかめずに、掴まれたシャツもそのままに三蔵の細い指先に視線を落として身動きひとつとれない。しかし凍りついたようなお互いの均衡は、三蔵の小さな声によって崩された。
「・・・う」
「さんぞっ?」
ぶるり、と身体を小さく振るわせたかと思うと、三蔵は悟空のシャツを掴んでいた指を外し、己の身体を自分の両手で抱きしめるようにして、胎児のように丸くなった。
「あ、さんぞ、寒気すんの?」
カチカチと奥歯を鳴らして小刻みにその痩躯を震わせる三蔵に、悟空は遣いの小坊主や侍医から三蔵の熱がかなり高い、と言われていた事を思い出した。
身体の奥深くから沸き上がるような悪寒に、三蔵は吐き気を覚える。こんな『寒さ』を感じるのは絶えて久しい気がする。精神的にも、肉体的にも。『寒い』という言葉を忘れてしまったような。常に自分の傍にあたたかいぬくもりがあったような気がするのは、どうしてなのか?
(これも俺が忘れちまった、過去の記憶なのか?)
悟空が去った後も感じた懐かしいぬくもりの記憶は、やはり悟空のものなのか? いや、そんな筈はない。げんに自分は悟空に抱かれた時に、触れてくる悟空の手に嫌悪感をもよおしたのだから。
そう心の中で自問自答していた三蔵が、びくっと肩を揺らした。悟空の手のひらが自分の額にそっと触れたのだ。高熱による悪寒の為に、ガタガタと震える三蔵の姿に悟空は瞬時戸惑ったが、それでもおずおずと自分の手のひらを三蔵の白い額に触れさせる。そして自分の肌に伝わる三蔵の体温に、きゅっと眉を顰めた。
(熱い。マジにさんぞ、熱あるよ)
いつもは自分よりも低い三蔵の体温。なのに今日は燃えるように熱く感じられて。
熱を出すと決まって悪夢に魘される三蔵。その上三蔵は思いの外、寒がりなのだ。このままでは安静にしていなくてはならないのに、安眠する事もできないだろう。
(ど、どうしよう)
いつもはこんな時、三蔵のベッドに潜り込み湯たんぽ代わりを務めていた。もともと人並み外れて丈夫な悟空だけに、添い寝をしたくらいで風邪などが感染する訳でもないし。何より三蔵が悟空の体温と心音に安心して、少しは安らかな眠りを得る事ができたから。・・・そう今までは・・・。
今の三蔵は、自分のぬくもりを求めはしない。却って自分が傍にいたら気分が悪くなるかもしれないが。だけど・・・。きゅっと唇を強く噛み締めると、悟空は意を決してそっと三蔵の布団の中に入り込み、熱を持つその痩躯を優しく抱き締めた。
「てめっ!」
いきなりの乱入に驚いた三蔵は、激しく身体を震わせ拒絶の意を示す。
「ごめん。気持ち悪ぃかもしんねーけど。でもこのまんまじゃ、さんぞ寒くて眠れないだろうから。俺が傍にいたら、眠れないかもしんねーけど。でも・・・」
なんとか下心がある訳ではない、三蔵を傷つけるつもりもない。接触嫌悪の三蔵にとっては、もしかしたらそれ自体が苦痛かもしれないけど。ただ少しでも、震えるその身体に熱を分け与えたいのだと。たどたどしい言葉で、なんとか三蔵に伝えようとする。
そんな悟空の誠意が伝わったのか、緊張に身体を固くしながらも三蔵は悟空をベッドから叩き出す事を諦めたように、そっと小さくため息をつくとおとなしくなった。
「ありがと、さんぞ」
安堵した悟空が、心底嬉しそうに弾む声で三蔵の耳元に囁く。その耳にかかる息にびくっと反応した三蔵に、悟空は慌てて「ごめん」と呟くとそのまま三蔵の身体をそっと抱き直して静かになった。
三蔵に乱暴を働いた自分に添い寝されるくらいなら、悪寒で凍え死んだ方がマシだ、と拒絶されても仕方がないと思ったのに。もともと他人の誠意も、好意も、世話焼きも、何もかもを厭う人なのに。こうして身体を固くしながらも、自分を受け入れてくれた。それがどういう心境の変化かは、わからないけれど。
でも、何でもかまわない。今確かに、最愛の人が自分の腕の中にいるのだから・・・。
大人しく悟空の腕に抱かれている自分が、信じられない。どうして悟空の手を掴んでしまったのか。どうして悟空の添い寝を許してしまったのか。
三蔵は悟空のまだ未成熟な少年の胸に、頭を預けたままぼんやりと考える。初めは悟空を警戒してか、それとも他人に触れられる事に対する嫌悪感からなのか。あんなに緊張して固くなっていた身体が、悟空の体温と心音に誘われて弛緩している。あまりの心地良さに、ゆっくりと眠りに引き込まれていくようだ。他人の胸の中でなんて、眠れる筈がないのに。背中を優しく撫でる、悟空の手。それは先日無理矢理三蔵の身体を開いた少年のものとはまるで別人のように、全く情欲をかき立たせない穏やかなもので。悟空の三蔵に対する想いそのままの温かさだ。
あの時は怒りや、悲しみをそのままぶつけるような荒々しさがあった。無論三蔵の言動が悟空を傷つけたのだから、自業自得と言ってしまえばそれまでだが。
考えてみれば自分が記憶を失って以来、悟空が三蔵の身体に触れた事はあの夜を抜かして一度もなかった。老医師の話だと自分達は肉体関係もある上に、悟空は無類のスキンシップ好きらしい。隙あらば三蔵にベタベタ纏わりついては、ハリセンの餌食になっていたとか。
そんな悟空が性行為は勿論、極力三蔵の身体に触れないようそれなりに気をつけていたらしい(あの夜三蔵の頬についた切り傷を舐めようとしたのは、本当に無意識だったのだろう)。だから三蔵は悟空に無理矢理抱かれたあの夜まで、悟空のぬくもりを知らずにいた。
悟空のまるで宝物を扱うような態度と、愛しげな慈しむような眼差し。
しかし逆上した悟空の愛撫は、そんな悟空の優しさとは似てもに似つかぬ激しさで。そのあまりのギャップに、三蔵の心は無意識のうちに自分の身体を暴く悟空の手と、欲に濡れて近づいてくる馬鹿共達の手を重ね合わせてしまったのかもしれない。けれど悟空のぬくもりは、こんなにも温かくて優しい。他人との接触を心地良い、と感じてしまう自分自身が信じられない程だ。羽毛に包まれたかのような心地良さに、ここ数日の苛立ちが己の中から霧散するのが判る。
そして今こうして悟空の腕の中にいると、あんなにも空洞を感じずにはいられなかった、自分の中の欠けたピースがぴったりと合った、と。そう実感せずにはいられない。
(やっぱり、てめぇだったのか?)
悟空との関係をそれとなく告げられ、信じられずに自意識過剰になり、悟空の自分に向けられる視線のひとつひとつに息が詰まりそうで。慣れない愛情のこもった眼差しに、内心動揺を隠せなくて。苛ついて、悟空を邪険にした。
けれど悟空が自分のもとを去って以来、ごっそりと心の中から抜け落ちていた『何か』。欠けていた、ピース。やはりそれは全て、この少年の存在だったのだろうか?
いつもいつも、煩く付き纏ってきた小猿。誰よりも自分にぬくもりを与える事を望む少年。こいつの手を取った時は、まだあんなにガキだったのに・・・。
(な、に?)
ぴくっと、三蔵の細い肩が揺れる。何か忘れていたものが、三蔵の意識に引っ掛かった。
「・・・くぅ」
突然襲ってきた激しい頭痛に、三蔵は小さい喚き声を漏らした。頭が割れるように痛くて吐き気がする。
「さんぞ?」
三蔵の異変に気付いた悟空が、さっと顔色を変えて腕の中の愛する人を覗き込んだ。
「さんぞっ?」
「・・・このままで、いい」
「で、でも、医者呼んだ方がいいんじゃ・・・」
「いいって、言ってんだろーがっ!」
慌てて隣室にいる侍医を呼びに行こうとして、ベッドから飛び起きようとする悟空のシャツを、三蔵は力の入らぬ指でぎゅっと握り締めて引き止めた。
「さんぞ・・・」
「このまま、こうしていろ」
脂汗を額に浮べながら、掠れるような声で呟く三蔵に逆らう事は、悟空にはとても出来ない。おろおろとしながらも、悟空は一回り小さくなった観のする三蔵の痩躯を包み込むように抱き寄せた。今の自分にできる事は、ただこれだけしかないから。
頭の中を悟空との過去がフラッシュバックする。
ふにゃふにゃと、蕩けそうな笑顔で自分を見つめる、金色の瞳。とく、とくと伝わる、優しい心音。
愛しさと、慈しみと、優しさに溢れた、ただひとりのぬくもり。自分にだけ与えられる、惜しみない愛情とぬくもり。
そう。確かに自分は、このぬくもりを覚えている・・・。
押し寄せてくる記憶の波に、三蔵の意識が押し流される。その荒々しい激流に耐え切れずに、思わず三蔵は悟空にしがみついた。
悟空が自分の名を叫ぶ声が、遠くに聞こえた。時も場所も弁えずに、自分を呼び続けるあの喧しい声。いつでもこいつの声は、イヤという程自分の中に響いてくる。そう、今だって・・・。
「うるせ・・・、馬鹿、猿・・・」
白濁する意識の中で、三蔵は自分の口が無意識のうちに小さく言葉を紡いだのを感じた。そして掠れた声で呟かれたその言葉に、悟空が金色の目を大きく見開いたのを感じる間もなく、三蔵はがっくりと悟空の胸に顔を埋めるようにして、意識を失った。