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「ンで、三蔵サマは無事記憶を取り戻したっつー訳ね?」

「ん」

八戒に差し出されたホットミルク入りのマグカップを両手に包み込んで、悟空は心底幸せそうに笑った。そのお日様のような笑顔が、やけに眩しく感じるのは決して気のせいではないだろう、と悟浄はぷわぁと煙草の煙を吐き出しながら思う。「いきなり色んな事思い出したんで、今でも頭がすげー痛いみたい。暫く仕事は無理だって医者のじーちゃんが言ってた」今日も痛む頭を抱えてベッドに臥したままの三蔵の為にと、悟空は八戒お手製の薬湯を貰いに来たのだ。

「でもよかったですねぇ。もう全部思い出したんでしょ? 三蔵は」

「うん。俺の事、馬鹿猿って呼んでくれたもん」

くしゃっと、顔全体で笑う幸せそうな悟空に、ついつい悟浄はちょっかいを出したくなってしまう。

「あに? 小猿ちゃん、馬鹿って呼ばれて嬉しい訳?」

ニヤニヤと小馬鹿にしたような顔で自分を見下ろす喧嘩友達に、悟空は久し振りに見えない身体中の毛をぶわっと逆なでて食ってかかる。

「うっせー! 呼んでいいのは、さんぞだけだ! エロ河童は、呼ぶんじゃねえ!」

「なんだとぉ! 寺追い出されて、行くトコもねえおめーを拾ってやったのは、誰だと思ってんだっ!?」

「八戒に決まってんだろ!」

「ンだとぉ、このチビガキが――!」

「チビって、言うなぁぁ!」

「はいはい、そこまでにしてください」

取っ組み合い寸前で互いをぎんっ、と睨みつける悟空と悟浄の間を、保育園の保父さんよろしく八戒がパンパンと、手を叩いて割ってはいる。

「悟空、ホットミルク冷めちゃいますよ。悟浄もせっかく悟空が遊びにきてくれたんですから。虐めるのは、止めてくださいね」

悟空贔屓の八戒が、にーっこりと背筋が凍えるような笑顔を悟浄におくる。その一見天使の―――その実、悪魔の笑顔に半分腰を抜かした悟浄は、そのまますごすごと灰皿を片手に部屋の片隅に退避した。

そんな悟浄に「べーっだ!」と舌を出すと、悟空はまだ温かいブランデー入りのミルクに、口をつける。それをこくこくと呑み干すのを嬉しそうに眺めていた八戒が、ふと悟空に問いかけた。

「悟空、もう大丈夫ですか?」

「え?」

質問の意味がわからず、大きな金色の瞳できょとんと八戒を見上げる悟空に、八戒は穏やかな笑みを浮かべながら、真剣な口調で再び問いかける。

「三蔵が例え一時でも、悟空の事を忘れてしまった。その事は、もう悟空の中では整理がつきましたか?」

三蔵が記憶を失った時、どうして自分との思い出を忘れてしまったのかと。三蔵は自分を嫌いになったから、ふたりの過去を忘れ去ってしまったのではないかと、望月の瞳を潤ませて嘆いた小猿。そんな悟空の思いが、その後の三蔵との関係をぎくしゃくさせはしないか、との八戒の思いやりに、悟空は湯気の立つマグカップをじっと見つめながら、ぼそりと呟いた。

「俺さ、何で三蔵が俺の事忘れちゃったのかって、すげーショックだったけど。考えてみれば、俺も五行山に閉じ込められる前の事、なんも覚えてねーんだよな」

失いたくないものがあった筈だ。岩牢に幽閉される以前の自分にも、確かに何ものにも代え難い大切なものがあった筈なのに。忘れたくない事も、あった筈なのに。何ひとつ今の自分は、覚えていないのだ。

「でも、それって『ふかこーりょく』だもんな」

確かに三蔵が自分を忘れてしまった事は辛かった。悲しかった。何でよりにもよって、自分の事を?そんなに簡単に忘れてしまえる程、自分の存在は軽かったのだろうかと。どうでもいい存在だったのだろうかと。

でも三蔵だって意識して自分の事を忘れた訳ではないのだと。あれは、事故のようなものだったのだと。自分の過去を振り返れば、そう納得する事もできる。

それに、もう終わってしまった事だ。今三蔵は、自分の事を思い出してくれた。傍にいる事も許してくれた。

「だから、もういいんだ。さんぞ、『馬鹿猿』って、いつもの声で俺の事呼んでくれるから」

そして悟空の差し伸べた手を、何だかんだといっても受け入れてくれるのだから。

「だから、俺幸せだもん」

そう言ってにぱっと笑った悟空の顔には、真夏の青空のように一片の曇りもなかった。

 

 

保温ポットに入った薬湯を大事そうに抱えて、悟空は愛する飼い主の待つ『我が家』へと向かう。

三蔵が記憶を取り戻した事に、三蔵付きの老侍医は『やはり三蔵様の看護は、孫悟空が最適でしたね』と、深い皺の刻まれた顔でにっこり、と笑い『うぜぇ』を連発する三蔵を説き伏せて、あれからも悟空に三蔵の看病をさせてくれている。

記憶を失った間の事については、三蔵は一切口にしない。悟空が自分に乱暴な行為を働いた事に対しても、不問としてくれている。そして「鬱陶しいんだよ」とは言いながらも、あれから連日添い寝をしたがるペットを布団から叩き出す事はせず。

「朝起きると、さんぞ俺にしがみついてんだよな」

その光景を思い出して、にへらっと、締まりなく悟空の顔が緩む。

記憶を失い、悟空を忘れた事によって、自分の心の中に空いてしまった大きな空洞。その喪失感に対する焦燥感なのだろうか? 無意識のうちに、悟空のぬくもりを求めているらしい。

そんな三蔵の身体を抱き締めて。三蔵の傍にいて。三蔵が自分の名を呼んで。そして、自分のぬくもりを求めてくれる。「俺、今世界中で一番幸せだよな」

ぼろっと、悟空の口から零れた言葉。あまりにもしみじみとした口調に、悟空は少々照れながら、寺院に向かう歩みを速める。

早く帰ろう。少しも早く、自分の輝く『たいよう』のもとに帰りたい。

きっと一日中ベッドの上で暇を持て余していた愛する人は、「鬱陶しいんだよ」と言いながらも、自分が傍に纏わりつくのを許してくれるに違いない。ここ数日の三蔵は、本人は自覚していないが大層悟空に甘いのだから。

そう思うと居ても立ってもいられず、悟空はぎゅっとポットを胸に抱き締めると、飛ぶように寺院に向かって駆け出したのだった。

 

                                                                                                                                                                       おわり

 

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