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ジェラシー

 

なにが三蔵を、あんなに怒らせたのだろう。

悟浄宅の悟空専用のベッドの中で、小猿はぼんやりと考える。

 

「八戒、もうしばらく泊めて」

もう間もなく時計の針が午前零時を指す頃。一般的に人様のお宅を訪ねるには無作法な時刻に訪れた訪問者を、八戒は驚愕の表情で迎えた。「悟空っ?」

「ごめん、夜遅いのに・・・」

「いえ、それは構いませんが、一体どうしたんですか?」

十日にわたるお泊り生活の末、悟空がやっと愛する飼い主の元に帰っていったのは今朝の事だ。小さなリュックにお弁当代わりのおにぎりをいっぱい詰めて、嬉々としてそれこそ見えない尻尾をちぎれんばかりに振りながら、この家を後にしたというのに。

「どうしました? 三蔵に怒られでもしたんですか?」

目の前の小猿は、見るも哀れなくらいに項垂れている。彼をここまで落ち込ませる事のできる人物は、この世にただひとり。彼の愛する飼い主だけだ。

「出てけって・・・」

「え?」

小さく零れた悟空の言葉に、八戒が条件反射のように聞き返してしまう。

「八戒や悟浄に飼ってもらえって」

そこまで言うと、悟空の望月の瞳からぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。

(またですか)

涙で顔をぐちゃぐちゃにした小猿を前に、八戒は小さくため息をついた。

「で、お前今度は何言って、三蔵サマ怒らせた訳?」

流石にたびたび繰り返される出来事に、悟浄の方も緊迫力の欠片もない。ハイライトを咥えたまま、ニヤニヤと薄笑いを浮かべて悟空を茶化す。「久し振りに会ったからって、まさかいきなり三蔵サマに襲いかかったんじゃないっしょーね?」

「エロ河童じゃねーもん! 一緒にすんな!」

涙の跡をほっぺたにくっきりと残した小猿が、牙を剥いて反論する。

「なにおぉぉ!」

「悟浄」

悟空の言葉にムキになって、取っ組み合いをしようと椅子から立ち上った知能指数がお猿と同等の同居人を、八戒がやんわりと制止する。そのにっこりと優しげな、一見聖母のような―――その実、裏がありありなのが恐ろし過ぎる八戒の笑みに、エロ河童はすごすごと退却を余儀なくされる。

「・・・八戒が作ってくれた、餡子いっぱいの饅頭が美味かった」

「は?」

ぽつん、呟く悟空の予想もしない、それと三蔵に出て行け、と言われた事とどういう関係があるのか、とさしもの八戒も動揺を隠せず、いささか間の抜けた声をあげてしまう。

「あと弁当持って、ジープで湖に見にいった」

「はあ・・・」

「さんぞにそう話したら、出てけって。八戒や、悟浄に飼ってもらえって」

「……」

凡人には、仏教界の最高僧の考えがどうも理解できない。なんとコメントしたらいいのかわからずに黙り込んでしまった八戒に、悟空はすまなそうに頭を下げる。

「だからゴメン、八戒。あと2、3日泊めて」

「ええ、それはいいですけど」

「ほとぼりが冷めたら、帰るから」

「珍しいじゃん。普段なら、泣いて叫んで『さんぞーの傍にいてぇよ~』って大騒ぎする、おめえがよ」

八戒の寒い笑顔に部屋の隅っこに追いやられて、傍観者と成り果てていた悟浄がようやく会話の中に入り込む。しかしそれは、小猿をからかうというよりは、驚きの色を含んだものだった。

「だって・・・さんぞ、すっげー疲れてたもん」

久し振りに見た最愛の人は、ここ数日の激務にすっかりやつれていた。人よりも白い肌は、すでに青白いの域に達していたし、目の下の隈がとっても痛々しかった。そんな三蔵に無理を言うのは、なんだかは憚られる気がする。

疲れが溜まると貧血を起こして手足が氷のようになる三蔵の為に、悟空は寺院に帰るなりせっせと湯たんぽを用意し、厚手の毛布で三蔵の身体をすっぽり包んでやった。あんまり煩くしたらいけないとは思ったけど、つい三蔵に話し掛けたくて悟浄や八戒の家に預けられていた時の事を話したら・・・。

「やっぱり、俺、煩くし過ぎたのかなぁ」

俯いて悲しげにぽつんと呟く小猿に、気のいいふたりの友人は顔を見合わせて深くため息をつく。飼い主の理不尽な仕打ちにべそをかいながらも、恋い慕う健気な猿に二人は心配半分、呆れ半分でかける言葉もなかった。

 

八戒のつくってくれた饅頭は、とても美味かった。

薄い皮には張りがあって、たっぷり入った餡子は上品な甘さで。和菓子――特に餡の好きな三蔵にどうしても食わせてやりたい程絶品だった。三蔵に土産に持って帰りたいと八戒にねだったが、その餡をつくった小豆がこれで最後だったらしい。どこぞの名産の小豆を少量分けてもらっただけで、近くで手に入るモノではないらしく、それにあまり日持ちもしないからと言われ、三蔵に食べさせてやる事を断念せざるを得なかった。

もしかしたら、その時の心境は自分が美味いモノを食べ損ねたよりも悔しかったかもしれない。

湖は深夜のドライブで行った。とても大きくて、丁度着いたのが明け方だったから、水面に朝日がきらきらと反射して、その眩しさはまるで三蔵の黄金の髪の思い出させた。

観光シーズンではないのか人気も無く、凛とした冷たい明け方の空気と、しんと静まり返ったこの風景は、絶対三蔵も気に入る筈だと瞬時に思った。仕事で疲れた三蔵の、いい慰めになるかもしれない。

何をするにも、何を感じるにも、真っ先に浮かぶのは三蔵の事だ。

とっても素敵な体験は、自分ひとりで味わうのは勿体無い。愛する人と分かち合ってこそ、その素晴らしさも何倍、何十倍にも膨らむに違いない。そう思って、少しでも心弾む出来事を三蔵に話したのに。ちょっとでも話を聞いて、楽しい気分になって疲れを忘れてくれたら・・・そう思ったのに。三蔵は違うのだろうか?自分がいると、煩わしいだけだから。疲れているのに、煩く話し掛けたりしたから。だから三蔵は怒ったのだろうか?

「さんぞ・・・」

小猿がぽつん、と愛する人の名を呟く。切ない気持ちが込み上げてきて、瞳の奥がじわっと熱くなる。

ここはとっても居心地がいいけれど。自分を奇異の目でみる坊主達もいない。八戒は「美味い、美味い」と満面の笑顔を浮かべて自分の手料理を食べてくれる悟空が嬉しいらしく、いつも美味しいものを、腹一杯食べさせてくれる。ジープや、悟浄など遊び相手にも事欠かない。きっと傍から見れば、あんな寺院で肩身の狭い思いをしているより、ここにいた方がずっと悟空にとってはいい事だ、と思うに違いない。

だけど・・・三蔵がいない。

ここには、悟空のきらきら輝く黄金の太陽がいない。どんなに美味しい食べ物も、どんなに楽しい出来事も。最愛の飼い主が傍にいなければ、何の意味もない。だから・・・。

早く、帰りたい。少しでも早く、三蔵の元に、自分の『居場所』に帰りたい。

小猿は、すん、と鼻をすすると頭から布団を被って蹲り、きゅっと目を閉じる。こんな時は眠ってしまった方がいいのだけれど。なかなか眠りは訪れない。せめて、夢の中だけでも三蔵の傍にいたいのに・・・。

 

それでもいつの間にか、眠っていたのだろうか。ぱらぱらと何かが規則正しく弾ける音に、悟空はがばっと飛び起きた。

(雨・・・?)

さっと悟空の顔が青褪めた。いや、悟空を眠りの中から引き戻したのは、雨音などではない。頭の中に響く、寒さに震える三蔵の声。声にすらならない、孤独と痛み。

「俺、帰る!」

転げ落ちるようにしてベッドから下りると、夜着のまま愛用のリュックを背負い、悟空は隣の悟浄と八戒の寝室に大声でそう叫ぶと、靴を履くのももどかしく裸足で家を飛び出した。

なにやら、八戒が叫んでいるのを微かに耳が捉えたが、悟空にはそれ以上にはっきりと聞こえる『声』で頭も心もいっぱいだ。

(さんぞが、呼んでる)

跳ね上がる泥水が、悟空の大地を蹴って愛する人のもとへと走る足をどろどろに汚す。傘も持たずに飛び出したので頭からずぶ濡れで、髪がべったりと額や目に張りつくのが鬱陶しい。けれど、そんな事はどうでもいい事だ。今悟空を突き動かすものは、日頃の不遜な態度からは想像もできない程か細い、愛する人の呼び声だけだった。

傍に行かなければ。あんなに凍えた声で自分を呼ぶ三蔵を、たとえ一瞬でもひとりぼっちにしてはいけない。

足の回転数をフルに上げて、悟空は恐ろしい程のスピードで愛する人の待つ寺院へと走っていった。

 

 

薄暗い寝室の中。三蔵は窓際に置かれた椅子に座って、ぼんやりと外を眺めていた。

いや、瞳は窓の外に向いてはいるが、その景色はまったく紫暗の瞳には映ってはいない。

悟空を追い出してから、ずっとそうしていた。夜着一枚でいる為身体はすっかり冷えきっていたが、三蔵は全く気にもとめていなかった。もうじき夜が明ける時刻だろうが、空はどんよりと厚い雲に覆われていて、外の明るさは夜中となんら変らない。

八戒の作った饅頭が美味かったと、馬鹿猿は心底幸せそうに言った。悟浄や八戒、ジープと一緒に行った湖はとてもキレイで、俺にも見せたかったと楽しそうに、あの猿は喋っていた。

三蔵はその時に悟空の笑顔を思い浮かべて、湧き上がる苦々しい気持ちに余計苛立ちを募らせる。

ああ、そうだろう。ここでは、育ち盛りの上に呆れる程の大食漢の悟空が満足できる程の食事が出されているか、と言われてば否というしかない。所詮は肉や魚を抜いた精進料理だ。腹持ちが悪い事この上ない。

だから時には、外でたらふく食わせてやったりもしているが。自分がいる時はまだしも、仕事で悟空を置いて寺院を離れている間は食事を抜かれる事も度々だったらしい。

そして、日頃超がつくほど忙しい自分が、悟空を連れてどこかに遊びに出かける事など、殆んどない。もともとが出不精で人ごみが嫌いなのだ。たまの休みは、ゆっくり静かに過ごしたいというのが本音だ。それでも10回に1回くらいは、ペットの猿の懇願に折れてしぶしぶ祭りやら花見やらに出かけるハメになるのだが。

そうだ。ここにいるより悟浄や八戒のところにいた方が、猿も楽しいだろう。腹一杯モノが食えて、いつでも構ってもらえる。ここにいっても、頭の固い坊主達に邪険にされるだけだ。自分だって決して悟空にとっていい飼い主ではないだろう。だから、悟空は自分に飼われるよりも、悟浄や八戒に飼われた方がいいに違いない。

そう思って、猿を追い出したが・・・。

本当に、そうなのだろうか?

―――本当は単に嫉妬しているのだけなのだろうか?

悟浄や八戒に。自分はあんな風には、悟空に接する事は出来ないから。なのに彼らのもとに預けられていた悟空が、あんまり幸せそうに悟浄や八戒、ジープと共に暮らした数日間の事を話すから。そんなに奴等がいいのなら、あいつ等に飼ってもらえばいいと・・・?

(・・・馬鹿馬鹿しい)

三蔵は、自嘲気味に口端を歪ませた。なんで猿の為に、悟浄や八戒に嫉妬しなければいけないんだ。客観的にみて、この方が猿の為にいいと思ったから。そして、自分もこれ以上あの煩いペットに煩わされたくはなかったから。

だから、ああ言ったのだ。それだけだ。そして、今自分の周りはこんなにも静かだ。纏わりついては自分を苛立たせる、小猿は傍にはいない。

あんまり静か過ぎて・・・嫌になる程、雨音が耳につく。

こんなに静かな雨の夜は何年振りだろうか。悟空を拾ってからは、いつも雨の夜には横に小猿の心音とぬくもりがあった。

1度だって自分が雨の日が苦手だと、悟空に言った事はない。そして悟空も1度も、その事に触れてきた事はない。だがいつの頃からか、雨の夜になると決まって三蔵の布団に潜り込んではぴたりと寄り添う猿の姿があった。

怖い夢をみたから、とか。雨の夜は冷え込んでひとりで寝るのは寒いから。とか。尤もらしい言い訳をしては、自分をそっと抱き締めてぬくもりを与えようとした悟空。その規則正しい鼓動に、雨の音もいつしか掻き消されていた。

その人より高い体温も、今は傍らにはない。そう思った瞬間、三蔵は心の奥底から感じる寒気に、小刻みに身体を振るわせた。

どうして、自分はこんなに弱くなってしまったのだろう。ひとりで雨の夜を過ごす事もできないほど・・・。

思わず自分を抱き締めるように、己の身体を抱き締めた三蔵の耳に、耳慣れたあたたかい声が確かに届いた。

「・・・さんぞ?」

 

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