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「・・・さんぞ?」

遠慮がちに開かれた扉の向こうから、おずおずと悟空が顔を覗かせた。夜目が利く金色の瞳で薄暗い部屋をさっと見渡すと、黄金の光はすぐに見つかった。

窓際の椅子にもたれ掛かかって、自分の身体を両腕で抱きかかえるようにしている三蔵は、こんなに冷え込んでいるというのに夜着一枚で他に何も身につけてはいない。悟空は微かに眉を顰めると、愛する人を驚かさないようにそっと近寄って闇の中でも発光するように白い、三蔵の頬に静かに指先で触れる。そして疲れと湿気った空気ですっかり冷えきった身体を、そっと壊れ物のように抱き締めた。

予期していたハリセン攻撃もなく、一瞬身体を固くしながらも三蔵は驚く程大人しく悟空の腕の中に収まった。

「・・・さんぞ、風邪ひくよ」

「・・・悟浄達ンとこ行ったんじゃ、ねーのか」

暫く黙ったまま悟空の腕に抱かれていた三蔵が、やがて掠れた声で小さく呟いた。

「行ったけど、雨降って寒いから帰ってきた」

「・・・八戒に言えば、毛布の一枚くらい用意すんだろーが」

「そーだけど、でも三蔵の傍の方がずっとあったけーから」

だから帰ってきちゃった、と悟空は言う。凍えているのは三蔵の方だと知っているクセに。ぬくもりを求めているのは、三蔵の方だと判っているクセに。どこまでもプライドの高い飼い主の心を尊重するペットに、三蔵は複雑な心境になる。

悟空を突き放しきれない自分。まるで悟空を求めているかのようだ。悟空は『三蔵がいないと寂しい』だとか言いながら悟浄や八戒の元で充分楽しい思いをしているのに。自分は煩いペットがいないだけで、こんなにも寒い思いをしてしまうなんて。

居心地がいい筈の新しい住処からわざわざ帰ってきた悟空が、まるで弱い自分に同情しているように思えて。三蔵は胸の中に渦巻く感情が、悲しさからなのか腹立たしさからなのか自分でも判らない。

同情されて傍にいてもらうなんて、そんなのゴメンだ。自分はこんな猿がいなくても、ひとりで立っていけるのだから。

「も、寝る。放せ。」

剣呑な声でそう言い放つといささか乱暴に悟空の手を払いのけて、その腕から抜け出そうとした三蔵の身体が、急にふわっと宙に浮いた。

「ご、ごくっ! てめえ!」

いきなり悟空に抱きかかえられた三蔵が、上擦った声でペットに抗議する。

「だって、三蔵裸足じゃん。床冷てーよ?」

心底心配している大きな瞳で三蔵の顔を覗き込み、ぎゅっと彼の細い身体を抱き締めてぬくもりを与えようとする小猿。悟空に同情されたのでは、とプライドを傷つけられた気がした三蔵は、そんないつもと変らぬ悟空の愛情に満ちた態度に毒気を抜かれて、ふぅっと息を吐いた。

「てめーの方が、冷てーんだよ」

着替えてざっと身体を拭いたとはいえ、傘もささすに雨でずぶ濡れになった悟空の身体は芯から冷えていた。

「ん、だから三蔵の傍にいたい」

「・・・悟浄達ンとこの方が、ずっとあったけーだろうが」

「え?」

抑揚のない、しかしどこか拗ねたような声音で、三蔵がぼそりと呟く。

「あそこだったら、てめーも自由に暮らしていける。こんなとこに居るよか、ずっと居心地もいいだろうが」

心の中に渦巻く本音が、つい口から零れ落ちる。気持ちが萎えていたからだろうか? 雨の夜にひとり凍えて雨音を聞いていたせいだろうか?

猿が自分から離れていくと思うだけで、こんなにも心が揺れるなんて。どうかしている。こんなはずじゃないのに。

唇を噛み締めて顔を伏せる三蔵の頭上で、そんな飼い主の心の揺れに頓着しない小猿の声がした。

「でも、三蔵がいないよ?」

悟空の一言に、三蔵の細い肩がぴくり、と震えた。

「三蔵が一緒なら、俺どこにいてもあったけーし、幸せだもん。でも三蔵が傍にいなきゃ、どこも同じだよ?」

三蔵の身体が震えたのを寒さ故と思ったのか、悟空はさらにそれでも自分よりは大きな三蔵の身体をしっかりと包み込む。

「ゴメンな、三蔵。疲れてたのに煩くしたから、怒ったんだろ? もう煩くしねーから。・・・絶対、とは約束できねーかもしれねえけど。でも出来るだけ静かにするから。だから、傍にいさせて?」

三蔵に追い出されたのは自分が煩かったからだと思い込んでいる小猿は、殊勝気に謝罪の言葉を口にして、愛する人の傍にいたいと言い募る。「・・・ここに居たって、楽しい事なんかねーぞ」

そんな悟空の、ささくれだった心に染み渡るような愛情に、ぐらぐらと揺れる自分が信じられない。

今日の自分は、どこまで心弱くなっているのだろう。悟浄達のもとで楽しんでいたらしい悟空に腹をたて、小猿を預かったふたりに訳の判らぬ嫉妬をし。そして、こんなにも今、悟空が傍にいる事実に安堵してしまうなんて。

こんな弱い自分は、自分ではない。全ては疲れと雨が原因だ。

そう自分に言い聞かせながらも、本当は誰よりも三蔵自身が自分の弱さを知っていた。そんな自分が吐き気がする程嫌で、それでも今自分を抱き締めるぬくもりを手放せない。

「でも幾ら楽しい事が山ほどあったって、横に三蔵がいなきゃ、意味ねぇよ」

そんな三蔵の気持ちも知らず、悟空は愛する人の背中に回した手を少しずらして、暗闇の中でも褪せる事なく輝く金糸の髪にそっと触れながら、はっきりとした口調で言う。

キレイなものも、美味いものも、心弾むものも。全て三蔵と分かち合いたい。そうすれば、それはひとりの胸に留めておくより、何十倍も何百倍も光り輝くだろう。

そして出来る事なら、痛みや、悲しみや、辛さも。全て三蔵と分かち合いたい。

傷を舐めあって生きるのではなく、互いが傍にいる事で、少しでもそれを乗り越える力になれれば。

自分は決してひとりじゃないんだと。共に生きていく相手がすぐ隣りにいるのだと。

「俺、三蔵とそんな風に一緒に歩いていきてーから」

そっと三蔵をベッドに降ろした悟空が、真摯な瞳で愛する人の紫暗の瞳を真っ直ぐにみつめる。

「・・・生意気言ってんじゃねーよ、猿のクセに」

三蔵が悟空に顔を背けて視線を逸らす。

どうしてこんなにも、悟空は自分が無意識のうちに渇望している言葉を、こんなにも自然に、当たり前のように、自分に与える事が出来るのだろう。どうしてこんなにも、悟空は自分の心と身体にぬくもりを与えるのが巧いのだろう。

あまりにも自然過ぎで、それを拒む事すら忘れてしまう。他

人の人生に関わるのも、関わられるのも嫌な筈の自分が。誰かを必要と思う事を、自ら拒み続けてきた筈の自分が。悟空の存在だけで、こんなにも変えられてしまう。

「・・・さんぞ? やっぱまだ怒ってる?」

ふいっと顔を背けてしまった飼い主に、悟空はしゅんと尻尾と耳を垂れて悲しげに問う。

「・・・もう、いい」

「え?」

「寒いし、眠い。俺は寝る」

「さんぞ・・・」

悟空は一瞬大きく目を見開き、それから心底幸せそうににこっと笑った。

出て行け、と言わない事は許してくれたという事だ。ダメならダメと三蔵は、はっきり言う。だから、これからも傍にいていいのだと。

「三蔵、一緒に寝てもいい? なんにも、しないから。寒いから、一緒に寝たい」

三蔵からの応えはない。だが暫くすると、三蔵は微かに身じろいでベッドに小猿一匹が入り込むだけのスペースを空けた。

「ありがと、三蔵」

嬉しそうな、弾んだ声でそう言うと、悟空はそっと布団の中に潜り込んでいつものように背中から三蔵を静かに抱き締める。ぴったりと寄り添って、冷えきった互いの身体を少しでも温め合おうとするかのように。

その悟空のぬくもりと、自分を包む込む腕の優しさと、小猿の心臓の音に。

三蔵は先程まであれほど耳について離れなかった雨音が、いつの間にか自分の中から霧散しているのに気がついた。そして氷のように冷たい身体が、悟空の熱を与えられてほのかに温まってきた事も。

(・・・馬鹿猿)

自分の心に、身体に、こんなにも簡単にするりと入り込んでしまう自分だけの猿。

悟空は知らないのだろう。そんなにも自分は愛する三蔵に、必要とされている事など。

怒ったのは、煩かったからではない。悟浄や八戒・・・いや、自分以外の悟空に関わる全てのものに、嫉妬していたからかもしれないからだと。

自分から離れても、悟空は平気なのだと思えて。彼にとって居心地のいい場所は、自分以外にもあるように思えて。自分がいなくては生きていけない、という悟空の言葉がまるで虚言のように思えて。

「さんぞ、愛してる」

そんな三蔵の心を見透かしたかのように、悟空が耳元で小さく呟いた。

「三蔵の傍が、1番いい。俺の居る場所は、ここだけだよ」

金糸の髪に鼻づらを突っ込んだ悟空が、触れるように三蔵の柔らかな耳にくちづける。その感触にぴくりと小さく肩を揺らした三蔵を、悟空は更に深く抱き寄せる。

「馬鹿猿・・・」

三蔵はくるりと身体を反転すると、悟空の胸に頭を押し付けた。

「さんぞ?」

驚きの声を上げる猿を無視して、その心音に耳を傾ける。

あんなにも、どす黒い感情が胸に渦巻いていたのに。悟空の鼓動だけで、こんなにも不可解な感情に振り回されていた心が凪いでゆく。

「さんぞ?」

応えのない三蔵の様子を不安に思った悟空が、再び愛する人の名を呼ぶ。

「うるせえ」

声にしなくても、てめーの『声』はいつでも聞こえる。てめーが俺を呼びさえすれば、煩いほどにこの心に響いてくる。

だから、今はもう少し悟空の鼓動に耳を傾けていたい。本当に不本意だけれど。こんなにも、悟空の心臓の鼓動とぬくもりが、強くあろうと己を律していた自分を弱くしてしまう。

悟空が必要だと、自分だけのものだと。今まで無縁だった嫉妬と独占欲というものが自分にもあったという事を、嫌でも三蔵に見せつける。

それでも、今だけは。あまりにも寒いから。そして雨音が煩わしいから。悟空の腕に抱かれたまま、何も考えずに眠ってしまいたい。醜い己の感情も、蓋をしておきたい悟空への想いも、失いたくないものを得てはいけないという決意も、強くあらねばという気持ちも。何もかも、今は考えずに。ただ悟空の存在だけを感じていたい。

そんな三蔵の『声』が悟空に届いたのか、悟空はそれ以上は何も言わずに一層深く三蔵の頭を自分の胸に抱き込むと、三蔵が眠りに落ちるまで静かに黄金の髪を優しく梳き続けていた。

 

おわり

 

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