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第五楽章

 

「お帰りなさい、悟空」

今日は遅かったですね、と柔らかい微笑みで迎えてくれた養父に、悟空は口元にだけ微かな笑みを浮かべて返す。

「うん、求人票をチェックしてたんだ。そしたら遅くなっちゃった」

十二月にもなると、夕方も五時を過ぎれば真っ暗だ。 玄関先でモスグリーンのダッフルコートを脱ぐと、それを靴箱の横に置かれたコート掛けのフックに大切そうに引っ掛ける。 今年の冬は、事のほか寒さが厳しい。十八にもなっても子供特有の高い体温を保持する悟空ではあるが、特に今日はコートにマフラー、手袋の重装備で、これから先本格的な寒さになった時の事を考えると、今から眩暈が起きそうだ。

このコート、実は三蔵と色違いのお揃いである。 一年前の冬休みに生まれて初めてバイトをした悟空が、稼いだバイト代と僅かな貯金をはたいてかき集めた金で買った物。勿論白い三蔵のコートも、悟空からのプレゼントで『男同士のペアルックなんて、気色悪ぃだろーが』と文句を言いながらも大切に着てくれた、悟空にとっては大事な思い出のこもったコートだ。 一度は一緒にこれを着て、映画を観に行ってくれた事もあったのだ。

(もうお揃いでコレ着て出かけるなんて事、ねーだろうなぁ)

「いい職場は、ありそうでしたか?」

小さくため息をつきながら、泣きそうな顔でコートをじっと見つめる息子に、光明は普段通りののんびりとした穏やかな声で問う。 その声にはっと我に返った悟空は、ぶるぶるっとまるで子犬のように頭を振ると、背中を向けて台所に戻る養父の後を急いで追った。

「ううん、やっぱ不景気だから求人ファイルも、すっげー少ねぇの。俺、就職組としては、出だし遅すぎたし。先生にも怒られちゃったよ。就職するんだったら、夏前から動き出さなくちゃダメだって」

流しでうがい・手洗いをしながら、唇をぷぅっと尖らせて愚痴る悟空に向けられる、養父の瞳は相変わらず優しい。 出来たての夕飯のおかずをテーブルに並べながら、「それは困ったですねぇ」と、どこまでも困った様子のない口調で相槌を打つ。 悟空が着替えの為に部屋に戻っている間に、すっかりテーブルは整えられていた。

何といっても育ち盛りの高校生。ほかほかと湯気の立つ山のような量の夕食を前に、いそいそと席に着くと「いただきます」と両手を合わせて、もの凄いスピードで養父の手料理を胃袋の中に片付けていく。

「ん、養父さん。この煮っころがし、美味しい」

ぽくぽくの飴色に煮込まれたじゃがいもをひとつ口の中に放り込んで、悟空はにこぉっと心から幸せそうな笑顔を向ける。本当に見ている方が幸せな気分になる笑顔だ。 こんな顔をして食べてくれれば、作る方も張り合いがありますね、と光明は悟空の空になった茶碗を受け取りながらしみじみと思う。

「そうですか。今日じゃがいもが安かったんでね。つい沢山作ってしまいましたよ」

「……三蔵にも、食わせてやりてーな」

ぱくん、と、もう一カケラじゃがいもを口に入れた悟空が、ぼそりと小声で呟いた。

「悟空」

心の中の小さな思いを、自分でも声に出していたとは思っていなかった悟空は、養父の自分の名を呼ぶ声にはっとなって、慌てて首をぶんぶんと横に振った。

「……え? あ、ゴ、ゴメン、養父さん。気にしないでっ!」

「そうですね、三蔵にも食べさせてあげたいですねぇ。一人暮らしですと、食事もいい加減になりがちですからね、彼は」 「う、うん……」

「それで、就職先の方はみつかりそうですか?」

「あ? え、えーっと」

一月以上も前に、瞼も顔もぱんぱんに腫らせて、三蔵のマンションから戻ってきた悟空。

ただ激しく泣きながら「もう三蔵の傍にいられない。養父さん、俺の籍外して」とだけを繰り返す彼から辛抱強く事の次第を聞き出し、『今すぐ籍を外す事もないでしょう。少し様子を見てからでも、充分間に合いますよ』と言い聞かせた光明は、飼い主に捨てられたかのように泣き疲れ、項垂れる悟空をあたたかい我が家へと迎え入れた。

相変わらず飄々としているこの養父は、変に悟空に気を使ったりしないのが却って嬉しい。が、ころころと変わる話題に、悟空のシンプルな頭がそのスピードについていけないのも、悲しい事実だ。

悟空の頭は愛しい―――そして、二度と会ってはいけない、と自分に課している三蔵の白く美しい面影から、超氷河期と呼ばれる就職戦線の現実に、慌てて頭を切り替える。

「柔道が盛んな企業とかが、まだ幾つか声かけてくれてっけど。……俺、もう柔道やる気ねぇし」

「そうですねぇ」

この悟空の爆弾発言を柔道界の面々が聞いたら、半狂乱で騒ぎ立てるのは目に見えているが、どこまでも大物な養父は『その事は了解済み』と、のんびりと相槌を返してやる。

「となると、やっぱ筆記試験とか、やんなきゃいけねーんだよなぁ。俺頭悪ぃし、就職試験ヤバイかもしんないし。それに、事務とか会社ン中の仕事って、あんま向いてなさそうだし」

「そうですねぇ。悟空は身体を動かしてた方が、性に合っているでしょうしねぇ」

「うーん、そうなると何ができるかなぁ」

「まあ、あんまり悩まなくても。人間なるようにしか、なりませんよ」

「ん。そうだね」

悟空はやっとその幼げな顔によく似合う、邪気のない明るい笑みを浮かべた。

のんびりと、ゆったりと時間が流れていくような感覚。 光明と話していると、本当に『人間、なるようにしかならない』という気分になってくる。 きっとこの人は、自然に身を委ねて生きていく方法を、知っているのだろう。逆境の時には無理にその流れに逆らおうとはせずに、時節が来るまでじっと、穏やかに、その流れに身を委ねていく。

三蔵や自分のように、真正面からそれにぶつかっていく生き方を、否定する気はないけれど、養父のような生き方もあるのだと。そしてまたその生き方が、この優しくてちょっと風変わりな養父に、よく似合っていると思う。

「ゴメンね、養父さん」

だからこの養父には、何でも話せる。隠し事は一切しない。悟空もまた、三蔵同様にこの光明という人を、心から信頼しているのだから。

「なんですか、悟空」

「せっかく養父さんが三蔵との事、応援してくれたのに。俺、結局三蔵の邪魔にしか、なんなかったよ」

悟空の三蔵に対する恋心は、光明も早くから気づいていた。 施設にいた頃から、いつも悟空の瞳は三蔵だけを追っていた。その小さな手は、三蔵を求めていつも伸ばされていた。

雛が親鳥を慕うような感情ではないと、それは一目見てすぐにわかった。 そんな悟空を見て、まだ子供なのにとか、相手は同性なのに、とか、そんな非難するような感情は全く沸き起こらなかった。むしろここまで純粋に、真っ直ぐに、ひたむきに人を愛する事が出来るのかと、光明はそんな悟空が愛しくて仕方なかった。

そして三蔵が悟空に向ける感情も、おそらくは三蔵本人や悟空よりも、この養父の方がよく理解しているに違いない。 光明の飄々とした人柄に惹かれたのか、彼にしては珍しい程素直に心を開いた三蔵。しかしそれは本当に例外中の例外で、今でも自分の周りに幾重にもバリアを張って、決して他人を寄せ付けようとはしない。

生い立ちや持って生まれたその目立ち過ぎる容貌も、その原因のひとつではあるだろう。その人間不信は、想像以上に根が深い。信じられる者はこの世で自分だけ、と頑なに心を閉ざしていた少年の日の三蔵が、自分を求めて向けられる悟空の小さな手だけは、決して離そうとはしなかった。

自分を慕う幼い者を突き放してはいけない、などと考えるような三蔵ではない。同じ環境に置かれた別の幼子が同じように三蔵に手を差し伸ばしても、彼は容赦無くその手を払いのけたであろう。

三蔵も悟空を求めているのだと。三蔵も、悟空を必要としているのだと。―――愛しているのだ、と。

幼い日の悟空が三蔵の白い手をぎゅっと握り締めた時、無意識の内に三蔵も、その紅葉のように小さな手を握り返してやっていた。その頃から、三蔵を追う悟空の瞳の中に感じる熱と同じものを、三蔵の瞳の中にも見る事ができたのだから。

「こんな事なら初めっから、三蔵ひとりが引き取られた方が、よかったかもしんねーよな」

「私はそうは思いませんよ。悟空は私の大切な息子ですから」

「……ありがと、養父さん」

当たり前のように、自分が望む言葉を与えてくれる養父に、悟空は素直に感謝する。

「施設に預けられた時から、ずーっと三蔵が傍にいて。養父さんに引き取ってもらってからも、ずーっと一緒で。だから、これからも三蔵と一緒に生きていきたいって、そう思ってアタックしたけど……。俺の一人相撲だったんだな」

悟空の切なさを滲ませた独り言を、光明は敢えてさらり、と聞き流す。

「とにかく養子縁組を解く事だけは、絶対にしませんからね」

「養父さん……」

悟空と三蔵の間に起こったすれ違いの一部始終を聞いた光明は、あくまで傍観者の立場をとる。 もう子供ではないのだから。真っ直ぐな気性そのままに突き進む悟空と、自分の感情に素直になれない三蔵。それを理解し、受け止め、自分達の力で乗り越えなくては、本当に互いを得る事などできないのだから。

誰よりも幸せになって欲しいと願っている大切な、大切な息子達。 どこまでもあたたかく自分を包み込んでくれる養父の眼差しに、悟空は瞳の奥がじわっと熱くなる。

込み上げてくる涙と嗚咽をぐっと飲み込むと、「えへへ」と泣き笑いの表情をそのまあるく幼い顔に浮かべて、悟空は再び養父の作ってくれた温かい夕食に箸を伸ばした。

 

 

深いため息をつくと、三蔵は構えていた弓を持つ腕を、力なく下ろした。

一ヶ月半前に悟空が『俺の存在が、三蔵の音楽の邪魔をする』と、叫んで実家に戻ってからも、三蔵は変らずバイオリンを弾き続けていた。 無論三蔵は悟空に言ったように、翌日に退団の意思を関係者に伝え、きっぱりとバイオリンを捨てるつもりでいた。しかし予想外にオーケストラ側との間で話が難航した。

オーケストラ側にしてみれば、三蔵程の人材をこれといった理由もなしに「ハイ、そうですか」と辞めさせる筈がない。しかもこれから年末年始のコンサートに向けて、演奏家が最も忙しい時期だ。こんな時期にいきなり「辞める」という三蔵のワガママが通る筈もなく。 とりあえず三蔵の退団は来年まで保留、という事で話は無理矢理収められた。

三蔵の変なところで生真面目な性格上、だからといってストライキを起こすようなマネも出来ずに、嫌々ながらもバイオリンを弾く毎日が続いてはいるが。ここまで演奏に身が入らなくなるとは、正直思ってもみなかった。

悟空との遣り取りは、三蔵が思っていた以上に彼の心に深い打撃を与えていた。今でも悟空の血を吐くような、叫びと泣き顔が頭から離れない。

『もう、三蔵の邪魔はしないから』

悟空の何が、自分の邪魔をしていたと言うのだろう。確かに自分が注目されて、悟空の将来のつまずきとなってはいけない、とは思っていた。けれど、それを負い目だとか考えた事など、一度もなかった。ただ純粋に、悟空が余計な事に煩わされないように。自分の好きな道を、真っ直ぐに歩んでいけるようにと。

別に自己犠牲だなんて、爪の先程も思ってはいない。はっきり言って人が思っている程、自分はバイオリンに対して思い入れがある訳ではないのだ。そんな事の為に、悟空が不愉快な事に巻き込まれる必要はないのだから、と。

どこでどう、すれ違ったのだろう。自分がした事は、悟空にとっては自己犠牲の押し付けでしか、なかったのだろうか? だからこれ以上三蔵にそんな事をさせない為にと、養子縁組を解いてもらうとまで言い出したのだろうか?

三蔵は力なくベッドに座り込むと、愛器を膝の上に乗せてぼんやりとそれを眺めた。

三蔵とバイオリンの出会いは、まだ施設にいた頃だ。 ちょうど三蔵が小学校に通い始めた頃、流石に学校まで着いて行く事が叶わず、ひとり取り残されて、施設のベッドの中で三蔵を求めておんおん泣き叫ぶ悟空の姿があった。

三蔵は幼稚園には通っていなかった為、それまでは四六時中悟空の傍にいてくれたのに。

突然姿の見えなくなった大好きな人。

捨てられてしまったのかと、自分を置いてどこかに行ってしまったのかと、まだ二歳の幼児は、それこそ施設の職員達の手には負えない程の勢いで泣き続けたらしい。それまでは、いつもニコニコ人見知りのまったくない赤ん坊だっただけに、そのあまりの豹変振りに、何か恐ろしい病気に罹ったのではないか、と慌てて大病院に検査に連れて行かれた程だった。

しかし三蔵が登校してから、びーっと物凄い勢いで泣き始める悟空が、三蔵が下校した途端にぴたっと泣き止んで、かまってもらおうと、トコトコと小さな足で三蔵の後を追いかける。 そこでやっと職員達も、三蔵不在に幼い悟空がパニックを起こしているのだと気がついた。

しかし、だからといって、三蔵に悟空の子守りをしてもらう為に学校に行くな、などと言える筈もなく、かと言って三蔵の姿が見えなくなった途端、火が点いたように泣き叫ぶ悟空の対処に、職員一同がほとほと困り果てていた頃。

(確かあン時学校から帰ってきたら、悟空担当の職員が泣き笑いの酷ぇツラして、飛んで来たんだよな)

 

『悟空君が、悟空君が、何とか泣き止んでくれたの―――っ!』

大の大人が、ンなみっともねぇ面して喜ぶ事か? と、白い目を向けた三蔵ではあったが。日々悟空の破壊的ともいえる泣き声に、穏やかな日常生活を脅かされていた彼女等にしてみれば、それこそ今日の夕飯は赤飯を炊きたい程に、めでたい事だ。

『で? 何食わせたら、泣き止んだんです?』

冷めた三蔵の口調にも頓着せずに、まだ若い女性職員は目を真っ赤に充血させて、握り拳まで作って三蔵に向かい叫んだ。

『違うわよっ。バイオリンの音を聞いた途端、泣き止んでくれたのよっ!』

『バイオリン?』

職員の話によると、その日も三蔵が登校した途端にびーびー泣き始めた悟空が、その時たまたまラジオから流れてきたバイオリンの音色を聞いた途端、ぴくりっと全神経をそちらに集中させた。そしてその音色を求めるかのようにラジオの近くまでにじり寄って、その前にぺたん、と座り込みじっと音楽に聞き入ったのだ。

ぐずぐずと愚図りはするものの、それまでとは段違いの小猿の安定振りに、何はともあれ一安心、と職員一同胸を撫で下ろした途端、ラジオから流れ出る音楽は、甘さを帯びた憂いのあるバイオリンの音色から一転華やかなトランペットのファンファーレに変る。 その途端に、びくっと全身を震わせた悟空は大きな金色の瞳に大粒の涙をいっぱい溜めたかと思うと、職員達が「ヤバイ!」と思う間もなく、ぎゃーんっと鼓膜が破れるかと思う程の大きな声を張り上げて泣き出した。

慌ててクラシックのレコードを求めて施設内を駆け巡る職員達。やっとの事でみつけた『ロザリオソナタ』なる、あまり聞いた事のない曲名のレコードをかけた途端、涙でぐちゃぐちゃになった顔をニコニコと綻ばす悟空の姿がそこにあった。

以来『悟空君の子守歌は、バイオリン』と、三蔵が戻るまで悟空の行動範囲には、絶えずバイオリン曲が流され続けていた。

(ンな野猿に、芸術を好むような感性があるのか?)

実際にこれまでの惨事と、その結末の一部始終を見た事のない三蔵は、どこまでも半信半疑ではあった。 事実自分が傍にいる時は、悟空はちょこまかと落ち着きがなく、部屋でじっとしているよりは外で泥だらけになるのを好む、根っからのアウトドア派だ。

しかし一度だけ三蔵が体調を崩して学校を早退した時、ステレオの前に陣取ってニコニコとバイオリンの音色に聞き入っている悟空の姿を見た。 その笑顔はいつも自分に向けられるものにどこか似ていて。勿論三蔵が戻ってきた気配に、はっと気づいて、くるりと振り返った時のはちきれんばかりの笑顔には、遠く及びもしないけれど。

それ以来、何となく三蔵の頭の片隅に、『バイオリン』の事が常にあった。 その後悟空も幼稚園に通い出す頃には、バイオリンのレコードを四六時中かける習慣もなくなり、遊びまくり暴れ捲くりと野猿振りを遺憾なく発揮して、やはり彼は体育界系の人間である事を内外に知らしめた。 芸術系には三蔵が思った通り殆ど関心を示さない小猿ではあったが、やはりバイオリンの音色だけは別のようで、テレビやラジオで時々流れると、なんとなく嬉しそうに耳を傾けていた。

そのせいだろうか。光明に引き取られた時『何か習いたいものとかは、ありますか?』と養父に聞かれた時、とっさに「バイオリン」と応えてしまった。

悟空共々引き取ってくれた養父に、そんな余計な金を使わせるような事は出来ない、と思っていたのに。 どこかで、どうせ聞かせるなら自分の弾くバイオリンを聞かせたい、と思ったのだろうか? 幼い悟空があんな笑顔をみせた音色を、自分の手で生み出してみたい、と願ったのだろうか?

「……ふん、くだらねーな」

もともと悟空の為に始めたバイオリンだ。 そして悟空が望んだから、今まで弾き続けてきた。それだけの事だったのだ。 悟空のこれからの障害になるのならば、別に今すぐやめて少しも惜しくないものなのに。

何がどう、すれ違ってしまったのだろう。

「てめぇが養子縁組解いてまでして、続けるようなモンじゃねーんだよ」

現に今ではまったく弾く気が起きない。 先日の稽古場でも炭酸の抜けたサイダーような演奏に、朱泱が『お前さんの演奏は、感情の揺れに左右されないと思っていたがなぁ』とため息交じりに呟いた程だった。

悟空とのすれ違いで安定さを欠いた心、苛立つ想いがそのまま音に表れている、という事なのだろう。

三蔵は立ち上がると、もう一度愛器を左肩に乗せて弓を構える。

『ロザリオ・ソナタ』

幼い日の悟空が特に好んだ曲。 どちらかというと日本ではマイナーな曲で、三蔵がこの楽曲にチャレンジしようと思った時は、今のようにネットで気軽に探し物が出来る時代でもなく、スコアを手に入れるのも酷く苦労した。

聖母マリアの生涯から一五場面を抜粋して、その一場面一場面を思い浮べて祈る『ロザリオの祈り』を題材にした弦楽ソナタで、ロザリオの祈りに合わせた十五曲とバッサカリアの一曲の合計十六曲から構成されている、バッハ時代の高名なバイオリストであり作曲家でもあったドイツ人・H.I.ビーバーの音楽だが、悟空のお気に入りは最後のバッサカリア・『守護天使』という楽曲だった。

哀愁を帯びた物悲しい旋律と、甘さと張りのある力強い音色。 悟空の性格なら、もっと派手な楽曲を好みそうなのに。初めて三蔵がこの曲を弾いた時、

『俺、この曲どっかで聞いた事あるっ。なんかすっげえ好きかも、この曲!』

と大きな金色の瞳をキラキラ輝かせながら叫んだものだ。 あまりに幼い頃に聞いたので、いつ聞いたかなどは記憶には残っていないようだったが、年月を経てもやはりこの曲がお気に入りだったらしい。

悟空に強請られて、(表向き)しぶしぶながら弾いてやる機会も多く、いつしか三蔵自身もこの曲に愛着が湧いた。コンクールで優勝した時も、アンコールを乞われてこの曲を選んだ。

でもこの曲は、結局いつも悟空の為に弾いてきた。 施設にいた頃から悟空が気に入っていた、というからこの曲のスコアを探した。 この曲を聴く時の悟空の心底幸せそうな、蕩けてしまいそうな笑顔が見たくて、ずっと弾き続けてきた。

いつだって自分のバイオリンは、悟空の為だけにあったのだ。万人に聞いて欲しくて弾いていたのではない。ましてや、自分自身の為などでは決してない。

けれど―――もう、それを聴いてくれる筈の悟空は、傍にいない。

そう思った瞬間、心臓を鷲掴みにされたような痛みが過ぎる。つい、弦を押さえる指に必要以上の力がこもった。すると。 ぴんっ!

「……っつ」

弾けるような音と共に、弦を押さえる左手に鋭い痛みが走った。 三蔵は整った眉を顰めてゆっくりと視線を己の左手に向ける。すると紫暗の瞳に映るのは、己の手の甲に走る一本の赤い線。

普段ならこんなに簡単に切れる筈のない弦なのに。それがどうした事か勢いよく切れて、それを押さえる三蔵の手を傷つけたのだと。しばし呆然と手元を眺めていた三蔵はじわじわと襲ってくる痛みに、やっとその状況を受け止めた。 見た目よりも傷が深いのか、次から次へと鮮血が滲み出て三蔵の白い手を汚していく。

「痛ぇ……」

そっとバイオリンと弓をベッドの上に置いて、三蔵は傷ついた左手の手首を、己の右手で握り締めた。 こんな時悟空が居たら、血相を変えて飛んでくるだろう。けれど悟空は傍にいない。

悟空が傍にいないだけで、こんなにも寒い。心も、身体も凍えてしまいそうだ。

悟空の気持ちもわからない。彼が何を望んでいるのかも理解できないこのすれ違いの状況の中、どんどん足元が崩れて自分自身を支えていけなくなるような気がする。

器だけが残って中身は空っぽになった自分。そんな人間から、どんな音楽が生み出せるというのだ。

こんなにも弱い自分。悟空に依存している自分。 子供の頃から悟空の手を引き続けていたつもりでいて、いつの間にか手を引かれていたのは自分の方だったのかもしれない。 失ってみて、初めてその価値に気づくというけれど、まさに今がその状態なのだろうか?

悟空に惹かれている自分を自覚してはいたけれど、まさか悟空がいなくなったら自分自身の足で立ってはいられない程に、あの小猿を必要としていたなんて。 そんな想いを抱えて、流れ出る血もそのままに、三蔵はじっとその場に立ち尽くしていた。

 

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