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第六楽章
「さんぞっ、三蔵っ!」
木枯らしが吹き荒ぶ中、悟空はただひたすら愛しい人の名を叫びながら、懐かしいマンション目指して走り続ける。 口元から零れ出る息は真っ白で、あまりの寒さにそのまま空中で凍ってしまいそうだ。あんまり急いで学校を飛び出してきたので、手袋はおろかコートまで忘れてしまった。
十二月半ばだというのに、ここ数日の気温は二月並の厳しさだという。刺すような冷たさの外気が、悟空の頬も、耳も、手のひらも、およそ剥き出しになっている皮膚を真っ赤に染め上げる。 身を包むものは学ランだけのその身体に、寒さも過ぎれば痛みと痺れしか感じなくなるが。今の悟空には、それすらも感じる余裕がない。
こんな事ならタクシーをひろえばよかった。駅から走って一五分程の距離が、やけに遠く感じられる。
二学期の終業式も無事終わり、屠殺場に引かれていく家畜の心境で、今学期の通知表を貰うホームルームの真っ最中。悟空は仕事先の光明から三蔵が倒れたらしい、との電話を受け取った。 事務室に呼ばれて何事か、と受話器を受け取った悟空は、その後の事を殆ど覚えていない。
三蔵はオーケストラの同僚に連れられてマンションに戻ったらしい、という養父の言葉を耳が受け取ったと同時に、そのまま事務室を飛び出した。 まさに着の身着のままの状態、学ランのポケットに定期と小銭入れがあったのが不幸中の幸いだろう。
(三蔵倒れたって、どっか悪いのか? どうしてこんな時、傍にいられなかったんだよっ!)
何よりも愛しい人が不調な時に、離れていなければいけなかった我が身を呪いつつ、悟空は血が滲む程強く唇を噛み締める。 心臓が破れそうに痛いのは、最近身体を動かしていない所為だけではないだろう。
オートロックを開けるのも、エレベータを待つのももどかしい。 合鍵を持っていない事に遅まきながら気づいた悟空は、一瞬呼び鈴を鳴らそうかと指を伸ばすが、何気にノブを回すと意外にも鍵はかかってなく、扉はすんなりと悟空を室内に招き入れた。
「さ……っ」
大声で愛しい人の名を呼ぼうとして、悟空は慌てて両手で自分の口を塞いだ。倒れたというのだから、もしかしたら眠っているかもしれない。 そう思いそっと忍び足で、突き当たりの三蔵の寝室に向かおうとするが、途中のリビングに人の気配を感じて、ふっと足を止めた。
(三蔵、いるの?)
音を立てないようにガラス張りの扉を開く。と、悟空の瞳に飛び込んできたのは、ソファに横たわる三蔵の金糸と、華奢な彼の身体の上に覆い被さるような格好の男の姿。
「なっ!」
想像すらしなかった光景に、悟空の思考も身体も凍りついた。思わず後退りしてしまった悟空は、足元に置いてあったドアストッパーを派手に蹴飛ばしてしまい、大きな音が室内に響き渡る。
「あれ、悟空君?」
その物音に三蔵に覆い被さっていた男が振り向く。それは悟空も何度か顔を合わせた事のある、印象的なひげ面の男だった。
「……朱泱、さん?」
「ちょうどいいトコに帰ってきたわ」
「え?」
にぃっ、とその頬の削げた顔に笑みを浮かべると、混乱している悟空をよそに朱泱はよっこいしょ、と言いながら三蔵の上から身体を退けた。
「コイツ、ここでダウンしちまってよ。ベッドに連れていこうにも、ひとりじゃ歩けねぇし、抱き上げようとすれば怒るしよ」
見下ろした三蔵を顎で示す朱泱に促されるようにして、悟空はソファに沈み込むようにして横たわる三蔵の顔をマジマジと見つめた。
愛しい人の顔を見るのは、あの喫茶店以来二ヶ月近くにもなる。 久し振りに悟空の金色の瞳に映る三蔵は、痛々しい程にやつれて、顔色も蒼白いを通り越してまるで蝋のような白さだ。本当に血が通っているのだろうか、と不吉な事を考えてしまう程に。愛する人のあまりのやつれた姿に、悟空は手のひらに爪が食い込むほど強く拳を握り締めた。
そんな悟空の肩を、朱泱がぽんっと叩く。
「悪ぃが、コイツ運んでくれねぇか?」
「え、あっ……と。うん」
「あとの事も頼んじまって、いいか? なんせあと七時間で本番なんでな」
「あ、今日、演奏会」
「三蔵の代役立てるよう手配してあっから、今日はゆっくり休ませてやれや」
こくり、と頷いた悟空は、床の上に無造作置かれたボストンバックを肩に背負って帰ろうとする、朱泱のダウンジャケットの端をぎゅっと握って、その足を止めた。
「三蔵、倒れたって……」
今にも泣きそうな声で自分を見上げる少年に、朱泱はボリボリと頭を掻きながらため息交じりに答えてやる。
「ああ、ここ一ヶ月以上、顔色が酷く悪かったしな。演奏もメタメタで、地の底這うような感じだったぜ。食事も睡眠も、充分じゃねぇんじゃないのか」
「……」
「帰る途中に医者にも診せたが、やっぱ睡眠不足に栄養失調と言ってたしなぁ。まあ、マスコミの方も落ち着いたみたいだし、悟空君が傍に居りゃ、少しは安心するだろう。あとはよろしく、頼んだぜ」
およそピッコロのような愛らしい楽器を奏でるとはとても思えない、骨太な指とぶ厚い手のひらでバシッ、バシッと悟空の背中を叩くと「そんじゃーな」と後ろ手を振りながら朱泱は玄関口に消えていった。 その後ろ姿をため息をついて見送った悟空は、くるりとソファに埋もれたままの三蔵のもとに戻ってくる。
苦し気に固く瞼を閉じた三蔵は、意識を失っているのだろうか? それでも自分を抱き上げて寝室に運ぼうとする朱泱を、無意識のうちにも拒むあたり、彼の接触嫌悪の程が知れる。
もともと他人との接触を酷く嫌う三蔵だ。それは心の触れ合いだけでなく、身体の触れ合いも含んでいる。三蔵の身体に触れて嫌悪の瞳を向けられない人物は、世界広しといえども悟空と光明くらいのものだろう。比較的心を許している朱泱といえども、肩を貸すのが限界だったようだ。
悟空はそっと、伸びて目にかかる程になった三蔵の前髪を優しくかき上げる。目の下にくっきりと浮かぶ、青黒い隈が痛々しい。
「……ん」
「三蔵?」
髪に触れる感触に意識が浮上したのか、小さく身じろぐと三蔵は薄っすらと瞼を上げる。現れてきたのは、悟空が求めて止まない美しい紫暗の宝石。
「あ、ゴメン。起こしちゃった?」
「ご、くう?」
「うん。三蔵倒れたんだって。ここ、マンションのリビング。ベッドに運びたいんだけど、いい?」
まだ朦朧とした頭で、自分が置かれた状況を理解できていない様子の三蔵に、悟空ははっきりと区切りよく三蔵に説明する。 しばしぼんやりと悟空を見つめていた三蔵は、やがてこくり、と頷いた。
悟空は三蔵の腕を自分の首に回させると、そっと横たわる三蔵の背中と膝裏に手を回して抱き上げる。三蔵は意外な程素直に悟空に身を任せて、力の入らない腕で悟空の首にしがみつく。
(三蔵……)
抱き上げた身体は、成人男性とは思えない程、軽く頼りない。 もともと華奢な骨格の三蔵ではあったが、厚着している洋服の上からでさえ、肉が落ちて痩せてしまったのがわかる。ぐったりと自分の肩口に顔を埋めている愛しい人の姿に、切ない程に胸が締め付けられた。 寝室に運び込み、振動を与えないように静かに三蔵の痩躯をベッドに横たえる。冷えた体を優しく毛布で包み込んでやると、額に浮かんだ脂汗をそっと手のひらで拭ってやった
「……い」
「え?」
ぽつり、とため息のように零れた三蔵の言葉が聞き取れなくて、思わず悟空は愛しい人の口元に耳を寄せて聞き返す。 「なに、三蔵。なんか、欲しいの?」
「お前の手、気持ちいい……」
「三蔵」
優しく触れてくる悟空の手のぬくもりに、三蔵はかつて無い程穏やかな笑みを口元に浮かべて、その感触に意識を委ねる。 そんな三蔵がたまらなく愛しくて、悟空は込み上げてくる嗚咽をぐっと飲み込むと、尚一層優しく三蔵の額から髪の生え際、そして柔らかい金色の髪を撫で続けてやった。
しばらく無言のままそうしていたふたりだったが、やがて少し気分がよくなってきたのか、まだ青褪めた唇を微かに震えさせて三蔵が悟空に問いかけた。
「おまえ、どうして、ここに?」
「ん、学校に養父さんから連絡入ったんだ。三蔵が倒れたって」
「……そうか」
「オーケストラの人が付き添って、マンションに戻ったって言ってたけど、それ朱泱さんだったんだ」
「……朱泱、居たのか?」
緩慢な動きで、微かに頭を悟空に向ける。倒れてからの事は、記憶にないのだろうか。いつもの鋭い力を失った紫暗の瞳に、三蔵の体調の悪さを窺い知る事が出来る。
「覚えてないの? リビングまで三蔵連れてきてくれたんだよ。もう帰ったけど」
「そうか」
「今日の演奏会も、代役立てるからって。ゆっくり休めって」
「……」
整った美しい眉を不機嫌そうに顰めると、三蔵は目を閉じてゆっくりと悟空に背を向ける。そしてそのまま布団の中で丸くなった愛する人の背中を、悟空は痛みを堪えるかのように金瞳を細めて見つめた。
「三蔵、痩せちゃったね。ンな身体じゃ、長時間の演奏なんか、できねーよ?」
「……バイオリンはやめるって、言っただろーが」
悟空に背を向けたまま、三蔵がぼそり、と呟く。 声が低くこもっているのは、決して顔の半分を布団で被っているからではない。悟空の口からバイオリンの事を聞くのを嫌がって、不機嫌になっているらしい。まだあの喫茶店での遣り取りを気にしているのだろう。
それは、お互い様だけど。悟空はそう思いながら、三蔵のさらさらと零れる金髪にそっと手を伸ばして優しく触れる。
「俺の事ならさ、気にしなくていいから。俺、柔道やめたから」
「……な、に?」
悟空の口から零れた思いもかけない言葉に、三蔵は大きくその瞳を見開いて、ゆっくりと上半身を捻って悟空を振り返る。
「柔道やめたんだ。道場にもこの間、辞めるって話してきたし。就職も柔道とカンケーねぇトコ、探したんだ」
「お前……」
驚愕に掠れた声が三蔵の唇から漏れる。そんな三蔵に少し大人びた笑みを浮かべると、悟空は愛しい人を驚かさないようにと、そっと彼の金髪を指先で梳きながら淡々と話し続ける。
「養父さんの友達の紹介でさ。建築関係の仕事。現場で働くんだけど、力仕事だから俺に合ってると思うしさ。事務所とかの仕事って、俺、ぜってー向かないと思うし」
「悟空」
鋭い声で遮る三蔵を、だが悟空はあえて無視する。
「養父さんも、頑張れって。当分は養父さんと暮らして、自活できる自信がついたら独立するつもりなんだけど」
「悟空っ!」
話の展開にこれ以上ない怒りと苛立ちを募らせた三蔵は、がばっとベッドから上体を起こすと、目の前の悟空の胸倉を左手で強く掴み上げた。その手の甲にはまだ大きなガーゼが当てられている。
「てめえ、何で柔道やめるなんで言い出したんだっ! オリンピックは、二年後なんだぞ!」
「三蔵、急に起きちゃダメだよっ。また気持ち悪くなるよっ?」
「それどころじゃ、ねーだろぉが」
カッと頭に血が上る。 いきなり起き上がった上に急な血圧上昇で、目の前が一瞬真っ暗になる。三蔵は込み上げてくる吐き気をなんとか抑えながら、その青褪めた顔を心配そうに自分の顔を覗き込む悟空に向けた。 紫暗と黄金色の視線が交わる。
「別にてめぇが柔道やめる必要が、どこにあるんだ。マスコミに目ぇつけられ易いのは俺だ。俺が引っ込めば、済む事だろーがっ」
「そうやって、三蔵を犠牲にしてまで、柔道する気なんかねーんだよっ!」
「犠牲なんかじゃねぇ! てめーこそ、俺の為に柔道やめようなんて、馬鹿げた事抜かしているじゃねえか!」
「いいんだよっ 柔道なんてっ!」
「ごくうっ!」
あんまりな悟空の言い様に、三蔵は病人とは思えない程声を荒げて、掴んだ悟空の胸元を一層強く握り締める。
いい訳がない。大事な悟空の将来なのに、なんでそんな簡単に自分に為に捨てようとするんだ。これでは自分の存在が、悟空が大空に飛び立とうとするのを、邪魔しているようではないか。 そんな事を望んではいない。悟空が自分以外の世界を見つけて飛び立つ日がきたら、その背中を蹴り飛ばして送り出してやるのが、自分の務めの筈なのに。
自分が悟空の足枷となって、悟空が得るべき世界を失わせて。
そうやって悟空を自分だけの世界に閉じ込めてしまいたいと、いつまでも自分だけの悟空でいて欲しいと、心の奥底で三蔵自身気づかずにいながらも、そう願い続けてはいたが。それを現実にするのは、悟空の事を思えば許されない筈だ。 そう思い血の気を失って青褪めた唇をぎゅっと強く噛み締める三蔵に、そんな彼の想いを露程も知らない悟空が、大きな望月の瞳から大粒の涙をぽろぽろと零して絶叫した。
「もともと三蔵の為に始めたんだっ。三蔵を苦しめたり、嫌な思いさせてまで、やるモンじゃねえ! それじゃ、意味ねえじゃんかっ!」
「……な、に?」
「三蔵を守れるだけの力が欲しくて、ただそれだけの為に始めた柔道なのに。俺には柔道なんて、それだけの価値しかねーのにっ。なのに柔道を続けていく為に三蔵に辛い思いさせて、三蔵の傍にいれなくなって……。ンなの『ほんまつてんとー』じゃねぇか」
十八にもなっても丸みを帯びている頬を、ころころと涙が伝って、三蔵の身体を包んでいた毛布の上に染みを作っていく。 「三蔵の傍にいる事も出来ないんだから、もう柔道なんかやってたって、意味ねーもん」
幼い頃からその美貌故に、薄汚れた視線に曝され続けていた三蔵。 就学以前や小学校低学年の頃は、身体も同年代の男の子よりずっと小柄で、その愛らしい容貌から少女と間違えられる事も多く、施設の職員達もあまりの可愛らしさに誘拐でもされるのではないか、と真剣に心配していた程だった。
あれは悟空が小学校に入学したばかりの頃だったろうか。 土曜日の半日授業だった為、ふたり揃って下校した時の事、悪戯目的で三蔵に近づいてきたひとりの男がいた。 無理矢理三蔵の手を取って人気のない所に引きずり込もうとするこの男に、悟空は勇敢にも身体を張って大切な人を守ろうとした。
華奢な身体で死に物狂いに抵抗する三蔵もさる事ながら、男を戸惑わせたのは決死の覚悟で自分に体当たりしてくる小さな、小猿のような子供の姿だった。 たかだか小学生のガキふたり、と油断していたのに、牙を剥いて唸り声を上げながら自分に挑んでくるこの少年は、正直不気味な程だった。
殴っても蹴り飛ばしても、決して怯む事がない。三蔵を掴んだ腕に、子供の鋭い犬歯で噛み付いて、ぶんぶんと振り回されても、喰らいついたまま離れようとしない悟空に男が心の底から恐怖感を抱いた時、騒ぎを聞きつけた近所の人が駆けつけてきて、男は御用となったのだが。
「俺、あん時すげー悔しかった」
男に物凄い力で掴まれた三蔵の細い手首には、鬱血した青黒い指の跡がくっきりと残っていて、子供の目から見ても痛々しい程だった。 気丈にも平静を装いながら、やはり恐怖に小さな肩を小刻みに震わす三蔵を慰める術も知らなくて。 もっと自分が強かったら、もっともっと力があったら。大切な三蔵に指一本触れさせなかったのに。悔しくて、力のない自分が不甲斐なくて。
悟空はその夜布団を頭まですっぽり被って、おんおん泣いた。心配して様子を見に来てくれた養父の膝に顔を埋めて泣き叫び、三蔵を守れるくらい強くなりたい、と訴えた。
「それで養父さんが、柔道を薦めてくれたんだ」
それから死に物狂いで稽古に励んだのも、すべて三蔵の為だった。 一日も早く誰にも負けない程に強くなって、三蔵を守りたかった。 幼い頃から自分の手を引いてくれた、この世で一番愛しい大切な人を、この手で守り抜くために。
三蔵がいつも心安らかに暮らしていけるようにと、それだけを願い、それだけを目標として。
「だから、優勝とか、オリンピックとか。ンなの俺にとっては、どうでもいい事なんだ。三蔵を守る事もできないで、柔道やってる意味なんかねぇもん。金メダル取ったって、三蔵を守れないで、三蔵の傍にもいられないなんて。そんなんで手にした金メダルなんて、俺には石ころ程の価値もねえもんっ!」
湧き上がってくる感情の波に押し流されて、悟空は堪えきれずに三蔵のやつれた身体にしがみついた。薄くなった肩に顔を埋めて、肉付きの格段落ちた背中に小柄な身体の割には逞しい腕を回してぎゅっと抱き締める。
このぬくもりを失ってまでして、自分は柔道をやる事に価値など見出せないのに。三蔵の音楽の邪魔をしてまで続けたいなどとは、これっぽっちも思わないのに。
「だから、三蔵。俺の事なんか気にしないで、バイオリン続けてよ。三蔵の弾くバイオリン、大好きなのに……」
三蔵の甘く低い声のように響く、愛しい人の奏でるバイオリンの音色。 ずっと、ずっと、大好きだったのだから。 小さな子供のように自分に抱きついて懇願する悟空の姿に、三蔵は言葉を失った。
じゃあ、今まで俺達のしてきた事は、何だったんだ?
三蔵は悟空の腕の中で呆然としながら、この数年を振り返る。 三蔵も悟空も、ただ互いの為に始めたバイオリンと柔道。悟空の言う通り、ただそれだけのものでしかなかったのに。 相手にとってそれこそが、掛け替えのない大切なものだと思い込み、その道を全うさせようとして、自ら身を引こうとしていたなんて。 一度きちんと腹を割って話し合えば、それで事は済んだ筈なのに。
本末転倒とは、まさにこの事を言うのだろう。互いの為を思い、かえって相手を傷つけていたなんて。今まで自分達のしてきた事を傍から眺めていたら、さぞ滑稽な見世物だったに違いない。
あまりにも馬鹿馬鹿し過ぎる展開に、三蔵の口元に自然と歪んだ笑みが浮かんだ。震える喉から掠れた笑い声が漏れる。
「三蔵?」
腕の中で華奢な肩と声を震わせて嘲笑する愛しい人に、悟空は怪訝そうに眉を顰めてその白い顔を覗き込もうとする。そんな悟空の様子がたまらなくおかしくて。三蔵は込み上げてくる自嘲ともつかぬ笑いを噛み殺しながら、ぼそり、と小さく呟いた。
「俺は万人に聴かせたくて、バイオリンを弾いてたんじゃねえ」
「え?」
今までずっと悟空の前では見せなかった本音。 知られてしまうのが、たまらなく恐ろしかった。
自分の弱さも欲望も、全てを悟空に知られたら、根こそぎ彼に自分を包み込まれて、支配されてしまいそうだったから。 そうなったら、もう二度と悟空を手放す事ができなくなってしまう。悟空の為にならないと頭では理解できても、悟空を自分に縛り付けてしまう。
年上で、光明に引き取られるまでは、悟空の保護者を自認していたけれど。本当は悟空がずっと傍にいてくれたからこそ、自分はここまで歩いてこられたのだから。
「もうバイオリニストとして、演奏する必要はねぇんだ」
三蔵にしては珍しい程、清々しい顔と声音で言ってのける。そんな三蔵に、悟空は望月の瞳を大きく見開き、これまた珍しく額に青筋まで浮べながら、腕の中の愛しい人にくってかかった。
「なんでだよっ!」
これだけ言っているのに、まだわかってくれないのか? 自分の想いは三蔵には伝わらないのか、と悟空は悔しさに血が滲む程強く唇を噛み締めた。
「俺言ってんじゃん! 三蔵がバイオリン弾くの犠牲にしてまで、柔道やる気なんて全然ねぇんだってっ! 俺、三蔵のバイオリン好きだから。バイオリン弾いている時の三蔵も、その音色も、すっげー好きだからっ。だから、こんな事でやめて欲しくねえんだよ!」
「だから、わざわざ演奏家として弾く必要なんて、ねーんだよっ!」
「三蔵っ?」 「わかんねーのか、このウスラ馬鹿猿! 俺は万人に聴かせたくて、弾いてたんじゃねえって!」
「……三蔵?」
自分の言わんとしている事をなかなか理解しない悟空に苛立った三蔵は、悟空の腕の中でもがきながら絶叫した。眦を紅に染めながら、ぜいぜいと肩で息をする誰よりも愛する人を、悟空はいささかマヌケ面で見つめる。
「てめーがガキの頃、あんなにバイオリンの音色を喜んで聴くから。俺のバイオリンが好きだって言うから。だから、今まで弾き続けてたんだろーがっ!」
ぶち切れて半分自棄になった三蔵は、とても睡眠不足と栄養不良で倒れた病人とは思えない程の勢いで、ぽかんと口を開けたままの馬鹿猿にガンガンと捲くし立てる。いや、本調子ではないからこそ、普段なら口が裂けても言えないような本音を、口に出来るのだろうが。
感情が昂ぶり過ぎて、紫暗の瞳に薄っすらと涙さえ浮かべている三蔵の姿に、やがて悟空の顔がぱあっと綻び始める。 「三蔵、それって……」
「……てめぇ独りが聴いてりゃ、それで充分なんだよ」
普段の尊大な三蔵からは想像も出来ない程、掠れたか細い声で呟かれた一言を、だが悟空の耳は決して聞き逃したりはしなかった。
「三蔵……、俺の為に、弾いてくれてたの? 俺の為に、バイオリン始めたの?」
無様にも自分の声が震えているのが、よくわかる。大きな大会でどんなに強い相手を前にした時でさえ、こんなに震えた事はない。 そう、いつだって自分を負かす事ができるのは、この輝く黄金の人しかいないのだから。
「てめぇは覚えてねーかもしれねぇが。俺が就学したばっかの頃、昼間施設に残されたてめぇがびーびー泣き止まなくって。ンな時バイオリンのレコード聴かせとくと、機嫌よくなったんだよ」
「さんぞ……」
「だから、てめぇがバイオリンの音色が、好きだって言うから……」
「うん、うん……」
掠れて語尾も聞き取れない三蔵の言葉に、悟空はぼろぼろと涙を零してその幼げな顔をぐちゃぐちゃに汚しながらも、三蔵が密かに好きな、とびきりの笑顔を最愛の人に向けると、その痩躯をぎゅっと力一杯抱き締めた。
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