LOVE LOVE LOVE
三蔵は、近年にない程苛っていた。
本日は11月29日、最高僧・玄奘三蔵法師の生誕祭。例年は寺院はおろか、長安をあげてのお祭り騒ぎとなるこの日も、今年は何故か三蔵の周辺は、しん、と静まり返って薄気味悪い程だ。
三蔵の誕生日とされる日から数日後に、釈尊が悟りを開いたとされる成道会がある。前者の祝いは当事者として、後者の祝いも最高僧として。常に三蔵は先頭をきって働かされる。成道会は……まあ、坊主である以上避ける訳にはいかない記念日だが。何も自分の誕生日まで、派手に祝ってもらう必要などないし、はっきり言って迷惑だというのが、三蔵の本音だろう。
ただでさえ、成道会を目前に疲労困憊、気力だけで何とか動いているような状態の時に、やれ生誕祭の法話だ、読経だ、宴だ、挙句の果てに宮中の使者を初め、仏教界のお歴々やら、長安の財界人やらの祝いの言葉を受けた後に、信心深い民衆の前に『ありがたくも尊い』姿を見せるという、三蔵から見れば祝ってくれているどころか、嫌がらせとしか思えない数々のくだらないセレモニーに『主役』として強制的に参加させられるのだ。いかに三蔵が人並みはずれて気力・体力に優れているとはいえ、これで倒れなかったら最早彼は人間とはいえないだろう。
何度心の中で、そして口にも出して「ざけんじゃねえ、てめーらっ! 俺を殺す気かっ?」と叫んだ事か。
それにしても自分がこの寺院に着院した当初は、生誕祭も今よりは幾分慎ましかった気もするが。三蔵の破戒僧振りを、長安の敬虔な仏教徒達は知らないのだろうか? 見た目だけは、麗しくも尊いこの若き美僧の人気は、なかなかのものだった。確かに神妙に経を読む姿だけを見たならば、そのありがたい姿に自然と両手を合わせたくもなるだろうが……。寺院の長老達がそんな三蔵人気に目をつけて、派手な生誕祭を行い多額の布施をせしめ、この最高僧を頂く寺院としての名を、もっと高いものにしようという魂胆なのだろうが。年々生誕祭は派手になっていく。
それに巻き込まれた三蔵は、たまったものではない。昨年はとうとう成道会を前に倒れた。生誕祭を派手にやられた上、成道会の準備がこれでもか、というくらい三蔵に回ってきて、マジに過労死するかと三蔵も悟空も思った。流石に長老達もやり過ぎと思ったのか。それとも三蔵の身を案じて、金鈷外れモードで大暴れしかけたお猿に恐れを生したのか。
今年の生誕祭は成道会の準備に追われる前に華やかに執り行われ、誕生日当日は三蔵の休みに充てられた。1日公務に煩わされる事もなく、一切三蔵の私室に坊主が立ち入る事は禁じられている。
ここ数日の冷え込みが嘘のように、今日は朝から穏やかな天候にも恵まれている。日頃の溜まった疲れを取るのには、最適の1日だ。なのに三蔵の苛立ちは、昼を過ぎても収まる事を知らない。朝からいったいどれだけ吸ったのか、灰皿はマルボロの吸殻に埋もれて、そろそろ山となった吸殻が雪崩れてきそうな状態だ。
何故だ。何故こんなに苛立つ。こんなに穏やかで、久し振りにのんびりできる休日なのに。自分の周囲は、こんなにも静けさに溢れて……。
そう、静かすぎるのだ。こんな事、五行山であの騒がしいペットを拾って以来なかったというのに。
普段はどこまでも煩く付き纏って離れない自分の猿が。今日に限って、朝から一度も姿をみせないのだ!
「さんぞぉぉぉ―――っ!」
どどどっ、と大地を揺るがすような地響きと共に悟空が三蔵の寝室に飛び込んできたのは、零時を一分少々過ぎた頃だった。三蔵のベッドの脇に敷かれた万年床にも帰らず、あの馬鹿は一体どこで夜明かしするつもりなんだ、と三蔵がベッドに入りながらも、イライラと寝付かれずごろん、と寝返りを打ったその矢先の出来事。
「しゃんじょぉぉぉ」
涙で顔をぐしゃぐしゃにして、ベッドの上に乗り上げて布団ごと三蔵をぎゅうぎゅうと抱き締める小猿が一匹。突然の事に暫し呆然と言葉もなく、されるがままにしていた三蔵だったが、やがてあまりの苦しさに怒りで顔を真っ赤にして、悟空の腕の中で暴れ始めた。
「ンの馬鹿猿っ。何湧いてやがるっ! 苦しいんだよ、腕、放せっ!」
「やだっ!」
きっぱり即答の猿に、三蔵のこめかみにぴきっと怒りマークが浮かびあがる。
「てめぇ、殺されてーのか! 放せって言ったら放しやがれっ!」
「やだったら、やだっ!」
両腕を悟空に拘束されていて、愛用のハリセンを使うどころか、身動きもままならない。
「だって、だって丸一日さんぞーの傍にいられなかったんだよぉぉ。俺、俺……」
うわあぁぁ、と三蔵の怒りなどまったく気にも留めず、お猿はますます三蔵の身体を力一杯ぎゅうぎゅう抱き締める。
それでなくても馬鹿力の悟空が、手加減なしに抱き締めるものだから、三蔵はあまりの痛みと苦しさに、思わず悲鳴を上げてしまった。その声に悟空の頭に上っていた血が、さっと引いた。慌ててぱっと三蔵を拘束する力を緩めると、今度はおずおずと壊れ物を扱うように三蔵の身体を抱き締めてくる。
そんなペットの言動に、三蔵は心身共にダウン寸前だ。しかし自分の身体を包み込む悟空の高い体温に、朝からずっと胸の中でくすぶっていた苛立ちが、あっという間に霧散する。その事実に三蔵は軽いムカツキと、けれど不愉快な程の安堵感を覚えながら、痛む身体をそっと悟空に預けた。
「……なにが『丸一日傍にいられなかった』だ。てめぇが勝手に、一ン日中どっか行ってたんだろーが」
どこか口調が拗ねているのを、三蔵自身気がつかない。
「ちげーよっ! 俺からの、さんぞへの誕生日プレゼントだったんだよ!」
そしてそんな三蔵のいささか子供っぽい言い様を気にも留めず、悟空は再び腕の中の佳人をぎゅっと抱き締めて耳元で叫んだ。
「あ?」
「俺、すっげー考えて。ホントは嫌だったけど、でもさんぞの為だと思ってさ」
そこまで言うと、お猿の望月の瞳がうるうると潤んでくる。
猿が一日傍にいない事と、自分の誕生日と。一体どんな関係があるというのか。猿の考える事は、やぱり人間には判らんと思いながら、三蔵はえぐえぐ泣きながら、話す悟空の言葉に珍しく耳を傾けた。
今日は愛しい三蔵の誕生日。例年はこの日、成道会の準備に追われている上に生誕祭と無茶をさせられて、心身共にコンディションが最悪な三蔵だが。今年はお休みを貰う事ができた。口には出さないがここ数日多忙を極めた三蔵だけに、今日の休みを心待ちにしていたようだ。
そう、三蔵は本当に疲れているみたいだった。あんまり顔色も悪くて、もともと華奢だった身体も一回り程小さくなってしまって。さしもの悟空も、三蔵から言われる前に自分に禁欲令を出したくらいだ。
三蔵の肌に触れたら、それこそ歯止めなんて利かなくなる。ちょっとだけ、とか三蔵の負担にならないようにする、なんて器用な事が出来る自信はない、と思わず胸を張って言えそうだ(もっとも三蔵にそんな事言ったら、きっと「くだらねー事、胸張って言うんじゃねぇ!」とハリセン往復ビンタを喰らうだろうが)。
思う存分あの白い肢体を貪って、三蔵を壊してしまう事態だけは避けねばならない。
そう猿なりに健気に気を使って、三蔵に触れなくなってからすでに一ヶ月。ここ2週間程は、ろくに顔を見る事もできない日々が続いている。いい加減三蔵恋しさに禁断症状が出そうになって金鈷が外れかけた悟空だけに、本日の三蔵の休みはもしかしたら当人以上に心待ちにしていたかもしれない。
いっぱい、いっぱい今までの分も、さんぞーの事愛してあげて、俺も沢山さんぞーに甘えて、その日は一晩中どころか、1ン日中放さねぇ。それから、さんぞーが喜ぶような誕生日プレゼントを……。
幾分妄想の入った浮かれた猿頭で考えて、そこではたっと気がついた。
三蔵が喜びそうな、誕生日プレゼント。それは、一体何だろうか?
悟空の金色の大きな瞳が一瞬宙を浮く。もともと物欲の薄い三蔵だ。何も欲しがらない代わりに、何をやっても喜ばない。自分だったら……やっぱり三蔵が欲しい。
誕生日に三蔵がずっと傍にいてくれたら、もう最高のプレゼントだ。しかし、果して三蔵も同じ気持ちだろうか?そうとも限らない……いや、そうでない方の確立が、断然高い気がしてくる。
元来煩いのが、大嫌いな三蔵だ。日々付き纏う悟空を「うるせーんだよっ」とお決まりの言葉と共に、ハリセンでしばく事も、悲しいくらいの日課となっている。もしかしたら折角の休みくらい、静かにのんびり過ごしたいと思っているかもしれない。
(だよな。ずーっと忙しくて体調もイマイチっぽかったし)
そんな時悟空に煩く纏わりつかれた上に、お猿の限度を知らない求愛に付き合わされては、何の為の休みか判らない。三蔵が一番今欲しい事。それはやっぱり、自分が大人しくして付き纏わない事?指一本触れないで、静かに寝させてあげる事?
(……俺が傍にいないでゆっくり休めるってのが、一番のプレゼントなのかな?)
行き着いた結論に悟空はじわり、と瞳の奥が熱くなるのを感じ、ぐすっと小さく鼻を啜る。
自分が傍にいない事が愛する人へのプレゼントになる、というのは何とも悲し過ぎる現実の気もするが。でも三蔵の為だから。三蔵が、ゆっくり休むためだから。これが、俺から三蔵へのプレゼントだから。
そう健気に決意した悟空は、夜の明ける前に大きなリュックに大量の肉まんを詰め込んで、この木の上で一日を過ごす為にこっそりと部屋を抜け出たのだった。
「も、もう俺、辛かったよぉ。さんぞ、すぐ傍にいるのに、自分から近寄れないなんて」
とぐずぐず泣く猿に、何と言えばいいのか。
「一生懸命、さんぞに近寄らないようにして……。でも、もう限界だよぉ」
抱きついたまま、白い滑らかな三蔵の頬に自分の頬をすりすりと寄せ、涙ながらに訴える悟空に、三蔵はため息交じりにそっと猿の柔らかい髪を撫でてやる。
「……てめーにしては、珍しく辛抱したみてーだな」
「だって、だって、さんぞ。休みの時は、ゆっくりしてーだろ?」
「まあな」
「俺が傍にいねー方が、いいんだろ?」
ぐすっと鼻を啜りながら悲しいげに問う小猿に、三蔵はぽつり、とひとりごちる。
「……本当に、そう思ったのか?」
「え?」
しかしあまりに三蔵の声が小さくて、その言葉は悟空の耳には届かなかった。
「……いい」
う言って暫くは悟空が抱き締めるままにさせていた三蔵だったが、やがてごそごそとお猿が布団を捲り上げするり、と自分のベッドの中に入り込んでくるに至って、ぴくり、とこめかみに青筋を浮かべて悟空を睨みつけた。
「てめっ」
しかしお猿は上目使いの甘えモードで、飼い主にお伺いをたてる。この表情に三蔵が弱いというのを、悟空は気がついての事なのだろうか?
いや、この猿にそんな事を考えるだけの脳みそはねーだろう。意識的なのはイヤラシイが、無意識にコレをやるというのも考え物だ。
「だめ?」
「俺は明日、仕事なんだよ」
悲しげに、きゅーんと項垂れる悟空に、ついついほだされそうになる。コイツは絶対曲者だ。
「なんにも、しねーから。一緒に寝るだけでいいから。傍にいてぇよ」
一ヶ月以上の禁欲生活を強いられた身としては、何もせずに愛しい人の体温を感じて眠るだけ、というのもある意味拷問に近い気もするが。でもここで三蔵のお許しなく襲いかかって機嫌を損ねたら、今日一日死ぬ思いをして愛する人から遠く離れたのがまったく意味がない。それどころか、ヘタをすれば問答無用で捨てられてしまうかもしれない。
かといって、これ以上一分、一秒でも三蔵の傍から離れるのは、とても耐えられない。今度こそ禁断症状の果てに、金鈷を外して暴走するに違いない。その可能性も自信も、充分にある(と言えば、また三蔵に「ンなヘンな自信も可能性も、持つんじゃねえ!」とハリセンで吹っ飛ばされそうだが)。
せめて、そのぬくもりを抱き締めて、愛しい人の存在をこの腕に感じていたい。愛する人の甘い匂いを、抱き締めて眠りたいと。大きな金色の瞳を潤ませてそう哀願する猿に、とうとう白旗を上げた三蔵がそっぽを向いてぽつり、と呟いた。「……添い寝だけだぞ」
「うんっ! さんぞ、大好きっ!」
今まで半べそをかいていたお猿は、愛しい人のたった一言にぱあっと向日葵のような笑顔を浮べると、三蔵が抗議の声を上げる間もなく、ぎゅうっとその痩躯を抱きしめて、ちゅっと三蔵の滑らかな頬に音をたててくちづけた。
自分を腕に抱き締めたまま、安心したようにくーくー幸せそうに眠る小猿。
『俺が傍にいねー方が、いいんだろ?』
悟空の胸に顔を埋めたまま、三蔵はぼんやりと先ほどの悟空の言葉を思い返す。
ゆっくりと休みたいであろう三蔵の為にと、今日一日愛しい三蔵の傍に近づかないという苦行を、自分に課した三蔵大事の健気な猿。しかし結果としては、悟空の不在に苛つくだけの一日だった。
不本意だが、悟空が自分のすぐ傍にいるという事は、三蔵の中では当たり前の事になってしまっているようだ。あの猿の声が聞こえないというのが、自分の横にいないという事が不自然すぎる程。悟空は深く深く、自分の中に入り込んでしまったのだ。
「いねえ方がいいんなら、とっくに捨ててるよ」
だけど悟空はこうして自分の傍にいる。手放す事なくこうして、ずっと一緒に過ごしてきた。そしてこれからも……。
「猿が。ヘンな気ぃ使ってんじゃねーよ」
無い脳みそなんか使って、馬鹿な事すんじゃねえ。てめーはへらへら笑っていりゃ、それでいいんだよ。
「……さんぞ……」
悟空が愛しい人の名を呼ぶ。
「……だいすき」
むにゃむにゃと、と訳のわからん事を言いながら、それでもぽつり、と零れ落ちた悟空の言葉に三蔵は小さく口の端を上げる。
「知ってる。ンな事」
寝惚けながら擦り擦りと、三蔵の髪に鼻ずらをつっ込んでくる悟空の背中にそっと腕を回すと、そのまま三蔵は静かに瞼を閉じる。夢の中でも呆れる程に自分を求める悟空の声と、その心音にそっと耳を傾けながら。
おわり