やっぱり河童か。
三蔵はしゃくりあげながらひとりごちる悟空の言葉から、やはりこの馬鹿げた騒動の原因は、あの赤ゴキブリかと舌打ちをする。その三蔵の仕草に、悟空はびくっと肩を揺らして慌てて三蔵の身体を解放する。どうやら、先程の舌打ちが、自分に向けられたものだと思ったらしい。
三蔵はゆっくりと上半身を起こすと、乱れた法衣を緩慢な動きで調えていく。
「あ、あの、さんぞ・・・」
その様子を窺いながら、恐る恐る声をかけてきた小猿に向けられたのは、これ以上ない程冷ややかな三蔵の紫暗の瞳。その怒りの度合いを思って腰が引けた悟空だが、それでも完全に無視されなかったのだから、と残った勇気を振り絞って掠れた声で呟いた。
「ごめんなさい」
「それは、何に対しての謝罪だ」
「さんぞーに、乱暴した。さんぞー、俺に抱かれるの嫌なのに、無理矢理抱こうとして、さんぞーに、すっげー嫌な思いさせた。さんぞ、マジ嫌そうな顔して・・・」
先程の唇を噛み締めて顔を背けた愛する人の姿が、フラッシュバックする。その途端に再び瞳の奥が痛いほど熱くなり、今まで胸の中に秘めてきたものが堰を切ったように悟空の中から溢れ出てきた。
「俺、さんぞが俺の事受け入れてくれた、なんて自分勝手な夢見ててっ! 所詮俺なんて、さんぞにとっては大食らいのペットでしかないのに。すっげーいい気になってたんだ!俺が抱こうとするたび、すっげーさんぞー嫌そうな顔すんのに! わかってたのにっ!そんたびに、さんぞー翌日メチャ機嫌悪かったのにっ。悟浄が『イヤよ、イヤよも』なんとか、なんてヘンな事言って。さんぞがイヤでもない事イヤなんて言う筈ねーのにっ。俺、馬鹿だから乗せられて、あんな事しちまった!俺の、馬鹿馬鹿っ! でも、本当にさんぞーが嫌がる事はヤる気なかったんだよ? さんぞーにあんな顔させてまで、さんぞーを抱こうなんて、俺思ってなかったんだよ?さんぞーにあんな顔させるくらいなら、俺、俺・・・」
流石体力自慢の馬鹿猿。息継ぎなしにここまで一気に捲くし立てると、そのまま感極まって、うわあぁぁぁ、と再び布団に顔を埋めて号泣する。三蔵はそんな自分の猿の様子を半ば唖然としてみつめていた。
(なにが、なんだって・・・?)
飼い猿に強姦されかけたショックと、ひとりでぐるぐるまわって泣き叫ぶ悟空の大声にくらくらしている頭をなんとか奮い立たせて、三蔵は話の筋道をたてようとした。
どうやら、猿は自分を抱きたいと思っていたが(それは、三蔵も判っていた)、なにやら自分が『あんな顔』をするので、悟空に抱かれるのを嫌がっていると思っていたらしい。ところが、そこにエロ河童が余計な知恵をつけた為に、猿が暴走して自分を襲おうとした、という事なのだろう。
そこで三蔵の、ここ最近の悟空の行動に納得がいった。幼い頃からスキンシップ過剰の悟空だったが、旅に出た頃から触れてくる手に今までとは違うものを感じるようになってきた。ひとりの男が愛する人を欲する手。三蔵はそれを拒めずにいた。やさしく触れてくるくちづけも、激しく貪るようなくちづけも。そして、ゆっくりと肌の上を辿る指先も。
悟空ならば、いいと思った。いつの間にか傍にいるのが当たり前になり過ぎた小猿。「愛している」なんて言葉を吐く気は毛頭ないが、それでも、猿ならば自分を望む事を許してやってもいい。悟空だから、いい。心の奥底でそう思ってそんな猿の愛撫を受け入れた。
なのにこの馬鹿猿は、優しいキスや愛撫で三蔵を煽っておいて、いつも途中で止めてしまう。「ごめんね」と、訳のわからぬ謝罪の言葉を残して、自分から手を引いてしまう。からかわれているのかと思った。中途半端に触れてきて、いつも途中で投げ出す悟空。
(ここまで俺に妥協させといて、ふざけんじゃねーっ!)
1度や2度なら、臆したのか、とか心の準備ができてねーのか、とも思うが。そう度々では悟空の誠意も愛情も疑いたくなってくる。
(やっぱり、あんなガキの言う事を少しでも間に受けた俺が馬鹿だったんだ)
と三蔵の機嫌のバロメータは下がる一方。それでも、繰り返しそんな悟空の挙動不審を黙って許していたのは、悟空への甘さゆえか。しかし悟空のこのふざけた行動のあった翌日などは、やはり氷点下まで三蔵の心の中は冷えきっていた。
それにしても。やたらと悟空は『あんな顔』を連呼していたが。自分はどんな顔をしていたというのだ。
確かに悟空があきらかに自分を抱こうとする素振りを見せると―――悔しいが―――身体が強張った。まるで猿を恐れているようで、そんな自分に腹が立つが。正直初めての行為に、怯えと羞恥心でまともに悟空の顔をみる事もできない。悟空が触れてくる場所全てが燃えるように熱く、湧き上がってくる感覚に知らず知らず声を漏らしそうになる。そんな自分がたまらなく嫌で。瞳をぎゅっと閉じて、唇をきつく噛み締めていた。
こんな時、自分は何をどうすればいいのかも判らなくて。育てた猿に主導権を渡すのは死ぬ程の屈辱だが、ここは悟空がはやく何も判らなくしてくれるように、と心の奥底で密かに思っていた。たしかにそれは事実なのだが。
(俺はそんなに、ヒデー顔してたのか?)
悟空が抱くのを躊躇する程、そんなに酷い顔をしていたのだろうか?三蔵の自尊心に、ぴしっとヒビが入る。
(仕方ねーだろうが! 初めて、その―――抱かれるのに、へらへら笑っていられるようなヤローが、どこにいるってんだっ!!)
そんなヤツの気がしれない。それでなくても三蔵は極度の潔癖症で、接触嫌悪なのだ。たとえそれが馴染んだ悟空の手とはいえ、やはりこれから先に自分の身に起こる事を考えれば、緊張で顔も身体も強張るだろう。
(そんな事もわかんねーのかっ! この脳みそ軽量猿が!!)
「さんぞ・・・、やっぱり怒ってるよね?」
むっつりと黙り込んだまま、これでもかという程の怒りのオーラを振りまき、眉間に皺を寄せて剣呑な眼差しで自分を睨みつけている飼い主に、悟空は世の終わりを思わせるような悲しげな声で、おずおずと問う。
「ごめん、ホントにごめんなさい・・・」
涙で顔をぐちゃぐちゃに汚したままの猿が、がっくりと項垂れて謝罪の言葉を述べる。そして心の中で必死に叫ぶ。
お願いだから、嫌わないで。俺を傍に置いて。
そんな切派詰まった『声』が、三蔵の心に煩い程響いてくる。そんな悟空の縋り付くような様子を見ているうちに、三蔵の怒りが急速に静まっていく。
一体この猿は、なにをひとりで空回りしていたのか。緊張と羞恥に顔を背ける自分の姿に、拒まれている、嫌がられていると勘違いし。三蔵の嫌がる事はしたくないと、欲望をずっと殺してきた。ところが、バカな河童にヘンな知恵をつけられて飼い主に襲い掛かるという暴挙をした挙句に、最愛の飼い主に嫌われたと泣き喚く小猿。
中途半端に手を出されては中断、というパターンを繰り返された上に、訳も判らず強姦までされそうになった。ここまでこの自分を振り回すとは、いい度胸だ。他の奴らなら、とっくにあの世に行っているであろう所業を働いた馬鹿猿。なのに、そんな馬鹿を突き放せないのは、何故だろう。
「・・・さんぞ?」
「・・・あんな顔で、悪かったな」
飼い主の顔色を窺うような悟空の耳に、憮然としたような三蔵の声が届く。
「・・・え?」
「ヤる気も失せるような、ヒデー顔してたんだろ? だったらこれに懲りて、俺に手ぇ出すんじゃねえ!」
「さんぞっ!?」
悟空の口から、悲鳴のような声が上がる。
「ヒデー顔って、なんだよ? 俺、そんな事一言も言ってねえよ? さんぞーはいつでも、誰よりも綺麗だよっ?」
今まですっかり萎れていた悟空が、いきなり三蔵に詰め寄って唾を飛ばしながら力説する。
「さんぞは、世界中で1番綺麗だって、俺いつも言ってんじゃん! キラキラ太陽みてーに輝いていて。すっげー眩しくてっ! そんなさんぞに、あんな辛そうなイヤそうな顔させんのが、俺イヤだったんだよ!」
大きな金色の瞳から、ぼろぼろと涙を零しながら悟空は切々と訴える。
「抱かれるの、イヤだったから、あんな顔したんだろ? 眉しかめて、唇噛み締めて、俺がキスしようとすると、いっつも顔逸らしたもんな。 俺、さんぞにそんなイヤな想いさせるくらいなら、俺、俺・・・」
そこまで言うと、またしてもうわぁぁぁと、泣き叫ぶ猿。マジで眩暈がしそうだ。何をひとりで思い悩んで、ぐるぐる空回りして・・・。馬鹿だ、馬鹿だと思っていたが、こいつは正真正銘馬鹿だ。
「さんぞ、イヤなのに」
「イヤがるさんぞに、無理強いなんて」
と、しゃくり上げながらくり返す猿に、段々と腸が煮えくり返ってくる。
(猿の分際で、俺が言ってもいねー事を、勝手に自己解釈すんじゃねよ! 生意気な!だいたい、いつ俺がイヤだって言った? イヤなら、てめーになんか指一本触れさせるかよ! 今までだって散々俺に触れてきたじゃねーかっ! あんな度の過ぎたスキンシップしやがって、そんでもてめーは生きてんだろーがっ! そんで何で判んねーんだよっ!!)
いくら三蔵だって、悟空の『お触り』が親子のスキンシップなんかじゃない事くらい、判っている。
三蔵の唇に、肌に触れるその手はあきらかに欲望が滲み出ている。それを黙認しているのだ。悟空を受け入れる気はあるのだと、どうして悟らないのか、この馬鹿猿は。あんな風に触れておきながら途中で手を引かれてしまう事を繰り返された、自分の立場はどうなるのだ?
愛する人を思いやろうという想いは健気だが、この場合ピントが外れ過ぎている。そんな悟空の空回りが、結果的に三蔵に不快な思いをさせていた訳だ。そんな三蔵の気も知らず、「さんぞーが嫌がる事は・・・」などと、えぐえぐ泣きながらしつこく連呼する猿に、とうとう三蔵の短い忍耐の糸がぶちり、と音をたてて切れた。
「うるせぇっ!! 誰がイヤだって言ったんだよっ! 勝手に思い込んで俺を振り回すんじゃねえ―――っ!」
すぱぱぱぱぱ――――んっ!!
久し振りにフルパワーのハリセンが、容赦なく悟空の顔面に炸裂する。ハリセンが真ん中からポッキリと折れてしまう程の威力に、さしもの悟空もドアに向かって物凄い勢いで吹っ飛んだ。しかし三蔵が叫んだ言葉を、しっかりと察知した悟空の回復は早かった。吹き飛ばされたのと同じだけの勢いで、愛する人が肩で息をしているベッドにダイブすると、涙に濡れた瞳をキラキラ輝かせて三蔵の顔を覗き込む。
「ね、ね、さんぞも俺に抱かれてもいいって、思っててくれたの?」
「誰が思うか! この馬鹿猿!」
「だって今『誰がイヤって言った』って言ったじゃん! てことは、さんぞ、イヤじゃなかったんだろ? そーゆー事だろっ?」満面に期待と喜びの笑みを浮かべながら、抱き締めようとする猿を三蔵は力一杯拒む。
「んな事あるわけねーだろっ! 何寝言抜かしてやがる! ざけんな、馬鹿猿!」
「照れなくても、いいよ。やっぱり悟浄の言ってた通りだ!」
悟空の口から出てきた名前に、三蔵のこめかみがピクリ、と痙攣する。
「・・・なんだ? 河童の言ってた事ってのは・・・?」
三蔵の問いに、悟空が胸を張って得意気に答えた。
「嫌よ、嫌よも好きのう・・・」
すぱん、すぱぱぱぱ―――んっ!!
再び炸裂したハリセンに、小猿は今度はベッド下に落下する。
「くだらねー事抜かしてんじゃねえ! もう2度と俺に触るんじゃねえっ!」
頭から湯気を出して怒り狂う三蔵だが、そんな飼い主の様子を気にも留めない単細胞なペットは再度ベッドに這い上がるとぷぅ、と頬を膨らませて乱暴な黄金の髪の想い人に抗議する。
「えー! あんでだよぉ。やっとさんぞの気持ち判ったんだからさ。俺、いっぱいいっぱい、三蔵の事愛して、大切にしてーもん!」
「せんでいいっ!!」
立ち直りの速過ぎる猿に、今度こそ三蔵は本当に眩暈を起こした。『泣いた烏が、もう笑った』とは、こういう事を言うんだろうか?思い込んで暴走したお猿は、もはや飼い主にも止められない。
「照れなくても、いいよっ」
「誰が照れて・・・」
「さんぞ、大好きっ。愛してる」
「馬鹿猿、やめっ・・・」
折れ曲がったハリセンを振り上げた三蔵の細い手首が、悟空に捕らえられる。今度ははっきり言葉で拒絶したというのに、悟空の耳にはもはや拒絶の言葉としては届かない。罵倒の言葉は、そのまま悟空の唇に塞がれる。
(ちくしょーっ! 結局最後まで、こいつに振り回されるのかっ!?)
言葉を奪われた三蔵は心の中で悪態をつくが、それも深く唇を貪られて思考が霧散しかける。結局いつも最後に折れるのは三蔵なのだ。本当なら今こそ自分を振り回し、引っ掻き回した罰として、猿の手を思い切り拒んでやりたいのに。
いつの間にか唇を解放されていた三蔵の腕は、悟空の背中にしがみつくように廻されている。そんな三蔵の態度に今度こそぱあっと太陽のような笑みを浮かべた悟空は、頬を赤く染めて顔を逸らせる最愛の人の白い面を両手で優しく包み込むと、少し熱を持った柔らかい頬に驚かさないようにとそっと触れるようにくちづけた。
おわり