白梅香
ふと、自分を包み込むような懐かしい匂いに誘われるようにして、悟空は寺院の裏手にある山に足を踏み入れた。
ほどんど人が通った形跡のない獣道を、それでも悟空は有り余る体力でものともせずに、ぐんぐんと誘われるままに奥深く分け入っていく。どれ位登ってきたのか、急に視界が開けて甘い香りの主が悟空を出迎える。
「わ・・・あ、これって・・・」
うつ伏せになりぐったりとしたまま微眠んでた三蔵は、鼻先に香る甘い柔らかな匂いで目を覚ました。
三仏神の命で暫く寺院を留守にしていた彼は、数日振りの悟空の激しい求愛に翻弄され、拒む術もなくただ悟空の思うが侭に貪られていた。重い身体はいうことを聞かない。
何とか視線だけを向けて、ぬけるようにだるい腕をゆっくりと持ち上げてベッド脇のスタンドに明かりを灯す。
「・・・ん、なに? 三蔵起きたの?」
三蔵の柔らかい金糸の髪に小さなくちづけを幾つもおとしていた悟空は、微かに身動いだ三蔵の視線の先を辿る。
「・・・どうした、あれは」
掠れた声で訊ねた物は、スタンドの脇にひっそりと生けられた白梅の枝。寺院の庭にあるものとは種類が違うのか非常に香りが強いのに、どこか控えめな印象がある。
「ん、裏山でみつけたんだ」
悟空が三蔵の髪に頬を寄せながら嬉しそうに言った。
「すっげえ古くて、でけえ木でさ。真っ白い花がいっぱい咲いててめちゃ綺麗だったんだ。でさなんかさんぞーみたいだったから、可哀想かなとも思ったんだけど一枝折ってきちゃった」
花にたとえられて喜ぶヤローがいるか、と三蔵は内心悪態をつくが悟空はただ自分が感じた事を素直に口にしたまでなので、それを言ったところでまた猿が煩く反発してくるだけだと、三蔵も余計な事は口にしない。
「てめえ、たしか去年の春に夜桜を見に行った時には、桜が俺みてえだって言ってたクセに。今度は梅か?」
「桜も三蔵だけど、梅も三蔵なんだよ!」
桜の華やかさや、散り際に見せるあの潔さ、夜桜の凄艶で、魔性の輝きを秘めた美しさも。白梅の慎ましやかで、それで凛としていて、芯の強さを感じさせるところも。みんな三蔵を連想させる。
そして、この白梅の香りはどこか、三蔵の匂い――それは煙草の匂い下に隠された三蔵本来の匂い――に、似ていた。
「だからさ、さんぞーがいない間ずっとこれ飾ってたんだ。なんか、この匂いするとさんぞーが傍にいるみたいなんだもん」
・・・ったくガキのくせにくどき文句だけは、一人前だな。
いつだったか八戒が「悟空はもしかして、天性のプレイボーイの素質十分かもしれませんね」と言っていた事を思い出し、三蔵は内心複雑な心境になる。
ゆっくりと背を撫でる悟空の手のひらの感触が心地よくて、うっとりと柔らかい愛撫に全ての感覚を委ねていると、突然ぴりっと痛感が走る。
「・・・っう」
「えっ!? な、何? 三蔵?」
三蔵の小さな悲鳴にぴくりとその手を止めた悟空は、そこで初めて三蔵の肩甲骨の近くに先ほどの行為の時には気づかなかった、切り傷をみつけた。
「さんぞ、ここ傷になってるよ」
「あ?」
「もう血は止まってっけど」
ほのかな灯りの中に白く浮かび上がる肌に、痛々しい一筋の赤い線。そっと刺激しないように、指先で傷口をなぞる。
「もしかして、任務の時につけたの?」
「かもな」
「俺が一緒に行ってたら、ぜってー、三蔵にこんな怪我させなかったのに」
「しょうがねえだろう。幾ら妖力制御装置付けてたって、妖怪が入れねえトコだったんだから。それに、こんな掠り傷くらいで、ガタガタ言ってんじゃねえよ」
「ちっちゃい傷でも、三蔵が傷つくのは、俺がヤなんだ。それに傍にいなきゃ、三蔵を守れないじゃん」
「猿に守ってもらおうなんて、思ってねえよ」
「でも、俺が守りたいんだもん」
悟空の舌がそっと傷に触れる。それに反応してぴくりと三蔵の身体が揺れた。微かな痛みが、まだ三蔵の身体の奥深くで燻っていた熱をあおる。
「・・・ごくっ、やめ・・・」
「も一度触れてもいい? さんぞー」
耳元で囁く悟空の低い声に、三蔵はますます追い詰められていく。
「・・・好きに、しろ」
掠れた声で、三蔵が呟く。
「ん」
背中から三蔵をそっと抱きしめると、悟空は柔らかな首筋に唇を寄せる。
「梅の匂いもいいけどさ・・・、三蔵の匂いが、やっぱ一番甘くていい匂いだよ」
再び、やるせない三蔵の吐息が、梅の香りに溶けて闇に消えていく。
おわり