「お、起きたの?」
その瞳の光の強さに、自分の心の中の欲望を見透かされたような気がした悟空は、耳まで真っ赤にして慌てて三蔵の身体を抱きしめる腕の力を緩めようとしたが。
「さ、さんぞ?」
三蔵の細い指が、悟空のシャツを掴んで自分から離れるのを無言で責める。
「・・・どこ行く気だ?」
「ど、どこって・・・」
病人とは思えない、射るような鋭い視線と口調に、悟空はしどろもどろになってしまう。そんな小猿を無視して、三蔵は一層強く悟空の身体を自分に引き寄せる。結果、悟空はより深く三蔵を抱きかかえる格好になった。
「さ、さんぞっ!?」
接触嫌悪症の三蔵が、自分から悟空に抱きしめられようとするなんて。唯一、辛うじてスキンシップを許されているペットの悟空でさえ、小猿の方から抱きつく事はあっても三蔵の方から接触を求めてくるなどという事は、嘗て一度もない。「昔、俺の看病をすんのはてめぇの役目だって大言壮語したのは、どこのどいつだ」
慣れない事に焦る悟空は、幼い日の自分の発言を引き合いに出されてぐっと言葉を詰まらせる。
「・・・俺」
ややあってぼそりと呟く悟空のシャツの袖を、三蔵がぐいっと引っ張った。
「じゃ、役目放棄すんじゃねぇよ。馬鹿猿」
腕の中から響く心持ち優しげな声音に、悟空の胸がちくりと痛む。
「役目放棄する気なんか、ねえけどさ・・・」
悟空は三蔵を腕に抱いたままの格好で、もそもそと所在なさ気に身体を動かした。これだけ密着していて、悟空の変化を三蔵が気づかない筈ないのに。ましてや、隣室から聞こえる八戒の声と安物のベッドの軋む音は、もう誤魔化しようもない程はっきりとこちらの部屋に届いている。
三蔵だって、聞こえているくせに。なんで、三蔵はいつもみたいに、自分の手を振り払わないのだろう。どうして、悟空の手に欲望を感じた時あからさまに見せた、冷たい眼差しを向けないのだろう。
「悟空?」
怪訝そうな三蔵の声に、悟空は涙声で小さく呟いた。
「・・・三蔵、判ってんだろ? なんで、前みたいに俺の手振り払わないの?」
「・・・振り払って、欲しいのか」
思いもかけない三蔵の応えに、悟空は大きく金色の瞳を見開いた。そんな訳ない。三蔵に振り払われる事が、何より恐ろしい自分なのに。今更何でそんな事を言うのだろう。悔しくなって、つい恨めしげに三蔵を睨みつける。
「さんぞ・・・」
「・・・俺を、抱きてぇんだろ?」
「さっ、三蔵っっ!?」
突然の三蔵の台詞に驚いた悟空は、思わず身体を引くようにして三蔵の顔を覗き込んだ。腕の中の愛する人は、思ってもみない程穏やかで静かな顔をしていた。
三蔵がこんな表情をするのを見たのは、悟空の記憶の中でも数えるくらいしかない。
あの時、悟空がやけに拘ったあの若い僧正。奴を半殺しの目に合わせなかったのは、あまりにもあの男が情けなかったからだ。自分の犯そうとした所業に蒼くなり、向けられた銃口に腰を抜かしていた。咆哮と共に飛び込んできた悟空の、牙を剥いて襲いかかろうとする様に、口から泡を吹いているようなそんな男を。そんな男の為に怒り狂う事さえ、馬鹿らしくなった。
ただ、それだけなのだ。それを、どう受け取ったのか、この馬鹿猿がキレて暴走したのだが。
あの時、悲しげに自分をみつめる悟空を見て、無償に腹が立った。そして、何故かそんな顔をさせたくないと思ってしまった。この馬鹿猿は、いつも能天気な笑顔を自分に向けていれば、それでいいのに。そう思うとどうしても、自分を求めてくる悟空の手を拒む事が出来なかった。拒絶の言葉を吐けなくて、悟空の腕を受け入れてしまった。
決して、流された訳ではない。無理強いだとも、思っていない。本当に嫌だったなら、くちづけを求めてきた悟空の舌を噛み切ってでも、その手から逃げた筈だ。
ただ、ふいに襲いかかってきた悟空の熱情と、目覚めた時の自分を見守る彼の慈しむような眼差しに、戸惑いを隠せなかった。ガキだとばかり思っていた猿が突然みせた『男の顔』に、どうしていいのか判らなかった。そして、予想に反して触れてくる悟空の手を心地よいと感じてしまう自分が、怖くなった。
今までにも、三蔵の美貌に血迷って言い寄る馬鹿共は大勢いた。命知らずにも、三蔵の身体に触れる者さえいた。その手は、言い様がない程不快だった。ただでさえ、他人との接触を嫌う三蔵である。己の身体に欲望に塗れた汚らしい手が、触れるなんて。考えただけでも鳥肌が立ち、吐き気がする。嫌悪しか感じさせない、厭らしい筈のその手が。
それなのにどうして、同じ欲望を感じさせながら、悟空の手はあんなにも優しいのか。それが、どうしても判らなかった
だけど、知るのが怖い気がして―――怖いなんて、決して悟空に気取られてはならないが―――本当に、自分を求める悟空の瞳が、手が怖かった。
だからあれ以来、拒み続けてきた。ペットが飼い主に求める以上のものを。
「欲しくねぇのか?」
少しからかいを含んだ三蔵の口調に、悟空はかっとなって怒鳴り返してしまう。
「欲しくねぇ訳、ねえだろ!? ずっと、ずっと、三蔵だけが欲しかった!! でも、それでも無理言って三蔵に嫌われるくらいなら・・・」
「前ン時も無理したじゃねえか」
「あ、あン時は・・・」
口ごもる悟空を見て、三蔵が微かに口元に笑みを浮かべる。
「うだうだ、少ねぇ脳みそで考えてんじゃ、ねーよ。猿」
三蔵の白く細い指が、悟空のべっこう色の前髪を軽く梳く。
「いいって・・・言ってんだよ」
「・・・さんぞ」
常にない、穏やかで優しささえ感じさせる三蔵の声に、悟空は呆然と愛する人の顔を見つめた。口元に柔らかい笑みを微かに浮かべる三蔵に、悟空は目の奥がじわっと熱くなるのを感じて、彼の首筋にそっと顔を埋める。何年も傍にいてすっかり馴染んだ、大好きな三蔵の甘い肌の匂い。
真っ赤な顔をした猿の金瞳から、ぽたぽたと大粒の涙が零れて三蔵の肩口を濡らした。
「も、我慢できねえよ。三蔵」
ずっと欲しかった。触れたかった。一度その全てを知ってしまったら。尚更求める心に火がついて、自分でもどうしようもなかった。でも・・・。
「もし、ほんとは嫌なら・・・」
悟空は低く、三蔵の耳元で囁いた。
「俺を殺して」
もう、自分で自分を止められないから。けれど、三蔵を傷つける事だけは、もう絶対にしたくないから。だから俺を止める為に、三蔵の手で、俺を殺して。
三蔵は黙って悟空の首に手を回すと、そのまま引き寄せてそっと悟空の唇に自分の唇を重ねる。
そんな事で悟空の命を奪う気など、微塵もない。今度は自分で考え、結論をだしたのだから。悟空の手を受け入れると決めたのは、自分自身なのだから。だけど・・・。
(お前の命は、俺のもんだ)
悟空の命を握るのは、自分だけだ。自分だけが悟空の命に関わる権利を持っている。この小猿を生かすも、殺すも自分の言葉1つなのだ。
だから。悟空の言葉に「お前を殺したりはしない」なんて、応えたりはしない。そんな優越感と、独占欲が三蔵の胸の中を渦巻いている。
首筋を這う濡れた感触に、三蔵は思わずぎゅっと瞳を閉じた。
悟空の熱い手のひらが夜着の合せ目からするりと中に入り込み、その指先がそっと三蔵の冷えた肌を辿る。旅の中で、いつの間にか悟空は自分が思っていた以上に大人になっていたのだと、初めて知った。寺院にいた時には見えてこなかった、悟空の包み込むような優しさと温かさ。
初めはそれが不愉快でたまらなかった。
自分が拾って、自分が育てた小猿。それが、自分の知らないうちに大人の男の顔を持つようになっていたなんて。今までは、三蔵が握りってやり、引いてやった筈の子供の手が、いつの間にか反対に三蔵の手を握りしめるようになっていた。(ガキの分際で、大人の顔して、俺の手を引こうってのかよ)
悟空が知らない内に成長し、自分を追い越していくのが怖かったのだろうか? いつも自分の後を追いかけてきた存在が、いつの間にか自分の前を歩くようになったのが寂しかったのだろうか。まるで、悟空が自分の知らない存在になったように思えて。
だから、あの一夜以来悟空の手を拒んでいたのかもしれない。考えてみれば、馬鹿らしい話だ。大人になっても『悟空』は『悟空』なのに。自分のぬくもりを惜しみなく三蔵に与えようとする、自分だけの猿なのに。
何を怯え、警戒していたんだろうか。
「さんぞ・・・」
悟空の手が、ゆっくりと三蔵の全てを暴いていく。あの夜以来、欲望に濡れた他の男達の忌まわしい手よりも怖かった、自分を抱いた悟空の優しい『手』。それは体調が優れない三蔵を気遣って触れてきたものと、なんら変わる事はなかった。それはどちらも、ただ三蔵を愛し、求める『悟空の手』に変わりないのだから。
(そんな事に、今頃気づくとはな・・・)
一度だけ悟空を受け入れた箇所に、濡れた指を感じて無意識のうちに身体が逃げを打つ。
「大丈夫だから、さんぞ・・・」
怯える身体を優しく撫でて緊張を解そうとしている悟空の手を、今度こそ三蔵は素直に受け入れる事が出来た。自分の為だけにある『手』。それを恐れる必要などないと気づいたのだから。それを、何よりも自分が求めていると気づいたのだから。
(こんな馬鹿猿を欲しいと思うなんて、俺も湧いてんな・・・)
何故、悟空を求めてしまうのか。そんなのは理屈じゃないとだけは判っているけれど。
「ご、くぅ・・・」
苦しい息の下、三蔵は小さく名を呼ぶと震える白い腕を差し伸べて、悟空の首に手を回して引き寄せてくちづけを求めた。この存在は全て自分のものだと、そう主張するかのように。
「さんぞ・・・」
悟空は腕の中で、青白い顔をして眠る最愛の人の頬をそっと撫でた。今度こそ三蔵に受け入れてもらえたのが嬉しくて、歯止めが効かずについ無理をさせてしまった。三蔵は体調が悪かったのに。辛い想いをさせてしまっただろうか。
「ゴメン、三蔵」
白い身体に無数に刻まれた赤い痣を指で辿り、そして、軽く触れるように瞼にくちづける。
「・・・ごくう」
羽のようなキスに、三蔵の瞼が小さく震えた。
「あ、ゴメン。起こしちゃった?」
「・・・今何時だ?」
悟空の問いを無視して、三蔵は掠れた声で聞く。遠くで小鳥のさえずる声が聞こえる。もう朝なのだろうか。
悟空は抱きしめる三蔵の身体に振動が伝わらないように、静かに身動きして壁にかかった時計を振り返る。
「えっと・・・もう5時だけど。さんぞ、起きるの?」
過労で倒れた三蔵なのに、一晩中悟空が離さなかったので、ほとんど休む事も出来なかったのだろう。その上苦痛と快楽に身悶える三蔵に煽られて、悟空が手加減できなかった所為でかなり身体に負担がかかっている筈だ。できれば、今日一日ゆっくり休んで欲しいのだが。意地っ張りで弱みを見せる事の大嫌いな三蔵が、果たして出発を延ばすと言ってくれるだろうか。
「もう一泊する」
「え?」
思いがけない三蔵の言葉に悟空は素っ頓狂な声を上げて、最愛の人をまじまじと見詰めてしまう。そんな悟空の様子に、三蔵は不愉快そうに眉を顰めると悟空の肩口に額を当ててぼそっと呟いた。
「・・・八戒があの分じゃ、起きれねぇだろうからな。ジープを出せねぇだろう」
きっと今頃悟浄は、八戒に嫌味の言われ放題だろう。悟空を煽る為に、散々悟浄に追い上げられていた八戒。確かにあれではジープの運転など、とても無理だ。
でも自分だって、とても起きられる状態ではないだろうに。流石にそう言うのは恥ずかしいのだろう。プライドの高い想い人を傷つけないように、悟空はあえて三蔵の身体の事は口にしないで代わりに柔らかく三蔵を抱きしめた。
「じゃ三蔵、もう一眠りした方がいいよ。過労なんて、ゆっくり眠れば治るからさ」
「ふん、病人扱いすんじゃねーよ」
「わかったから。ね、寝よ?」
まるで子供に言い聞かせるかのような悟空の口調に、なんでこの俺が猿にガキ扱いされなくてはならんのだと、三蔵の眉間の皺が一気に増えた。
「じゃ、てめぇはあっちのベッドに移れ」
むっとした三蔵の口から紡がれた言葉に、小猿はガバッと飛び起きた。
「えっ!?」
「・・・っ。急に起きるんじゃ、ねーよ。この馬鹿猿!」
「あ、ゴメン。でも、さんぞ・・・」
振動が三蔵に響いて、悟空に貪り尽くされた身体が悲鳴を上げた。寝不足と泣いた所為だろうか、真っ赤に充血した瞳で睨まれて、悟空はしゅんと項垂れる。
「このベッドはシングルだろーが。てめぇがいたら狭ぇんだよ」
「えーっ!! そんな事言わないで、一緒に寝ようよ~」
「却下」
優しさの欠片もない、つれない恋人の言葉に悟空の顔が情けなく歪む。
「さんぞぉぉ」
ふえーんと、半べそをかきながら擦り寄ってくる悟空に、夕べの雄の面影は微塵もない。
(ふん、大人の顔をしたかと思えば、こんな所はガキの頃と少しも変わりゃしねぇ)
それが、嬉しいのかどうなのか、三蔵自身にもよく判らないが。三蔵の横にちょこんと座って、見えない耳と尻尾を垂れている悟空を、それでも愛しいと思ってしまうのは、自分も変わってしまった証拠なのだろうか。
(こんな馬鹿猿なのにな・・・)
三蔵は薄く口元に笑みを浮かべると、くいくいっと指で悟空を呼ぶ。
「さんぞ?」
大きな金色の瞳を潤ませながら、それでも顔を三蔵に近づける猿の両頬を、三蔵は思い切り横にびよーんと引っ張った。「ひ、ひてーよ、しゃんじょ~」
面白いくらいに伸びる悟空の頬に満足したのか、その手を離すと三蔵はそのまま顔を壁に向けたいつものお休み体勢を取った。真っ赤になったほっぺたを両手で押さえながら、悟空が恨めしげに自分を見つめているのを肌で感じる。
「毛布代わりになら・・・」
暫く目を閉じたまま悟空の視線を受け止めていた三蔵が、やがてぼそりと呟いた。
どうして自分は、この猿に甘いのだろう。たとえ視界に入らなくても、あの瞳を感じただけで、ほだされてしまう自分がいる。いつでも自分だけを真っ直ぐに見つめる、大きな金色の瞳。
「え?」
「毛布代わりになら、使ってやってもいいぞ」
三蔵の無表情を装った一言に途端に相好を崩した小猿が、上掛けの上から三蔵に抱きついてくる。そんな悟空の懐き振りに眉を顰めながらも、三蔵は擦り寄ってくる小猿を振り払ったりはしなかった。
「さんぞー!」
「ただし、毛布は大人しくしていろ」
これ以上は甘やかさないぞとばかりに三蔵が言い放つが、肝心の小猿はそれを理解したのかすこぶる怪しい。溶けてしまいそうな程ふにゃふにゃした笑顔を三蔵に向ける。
「うんっ! さんぞー大好き」
「聞き飽きた」
「でも、俺は言い足りないもん」
「うるせぇんだよっっ!」
臆面もなく言ってのける悟空に、三蔵が赤面する。つい大声を出して怒鳴ってしまったのは、照れ隠しなのだと自分で判っているのが、また三蔵には悔しい。
「静かにできねぇんなら、叩き出すぞっ。この馬鹿猿っ!」
「わ、わかったよ。わかったから」
三蔵の剣幕に一瞬だけ身を縮こませた小猿は、そのままするりと三蔵の横に潜り込んで、あらためて背中からぎゅっと愛する人を抱きしめた。
「・・・おい」
「毛布は、三蔵をあっためる役目があるんだよ?」
「・・・言ってろ、馬鹿」
「うんっ」
擦り擦りと頬を寄せてくる小猿を鬱陶しいと思いながらも、ついその抱擁に身を委ねてしまう。疲労した身体は余程休息を求めているのか、全身を包み込む体温を心地よいと感じる間もなく、三蔵は少しだけ背中を悟空に預けるとすぐに深い眠りに落ちていった。
「寝たの、さんぞ?」
悟空に問いに応えるのは微かな三蔵の寝息だけ。
「こんどこそ、ゆっくり休んでね。俺の・・・腕の中でさ」
悟空は柔らかな寝息に安堵すると、三蔵の白い頬に、額に無数のキスを降らせ、飽きる事なく朝日に反射する最愛の人の金糸の髪を優しく梳き続けた。
長い間焦がれ続けた誰よりも愛しい、大切な人。やっと自分を受け入れてくれた、この手に掴んだ宝物の感触を、その手で何度も確かめようとするかのように。
おわり