ma cherie -Happy birthday-
「悟空、こんにちは」
「よ、馬鹿猿」
大きな籠を背中に背負って早足に寺へと向かう悟空の足を止める、聞き慣れた懐かしい声。
「八戒! 悟浄!」
悟空の大きな瞳が、嬉しげに見開かれる。
「なに、なに、どうしたの? めずらしいじゃん!」
重そうな背の荷物をものともせずに、悟空は俊敏な仕草で2人に駆け寄る。
「ふたりがここに来たのって、俺たちが引っ越してすぐ、以来だろ?」
十数年に渡って三蔵と悟空が住み続けた長安随一の寺院から、三蔵が幼い時を過ごした、ここ金山寺に住まいを移してから、8ヶ月程経つ。以前に比べると距離的にも遠い上、やはりふたりで暮らすようになった三蔵と悟空に遠慮してか。引っ越して1ヶ月程した時に、引越し祝いを持って顔を出したきりだ。懐かしい顔に、悟空も喜びを隠しきれない。
「ほら、今日は三蔵サマのお誕生日でしょ?」
「美味しいお酒が手に入ったんで、是非三蔵にと思って」
そう言いながら八戒は手にした酒瓶を持ち上げて悟空に示す。
「ついでに、みんなで三蔵サマお誕生日パーティーってね」
「なんだよ、ついでって! 悟浄は単に酒が呑みてーだけなんだろ?」
「なにおぉ!この生意気なガキんチョ猿が!」
「うっせー!、俺はもうガキじゃねぇ!!」
顔を合わせれば、変わる事なくくだらない事で喧嘩を始めるふたり。内容も、西へと向かう旅に出る前から少しも変わっていない。あれからもう、何年も過ぎたというのに。これが、ふたり流のコミュニケーションの取り方なのだろう。
兄弟のようにじゃれあうふたりの姿は、微笑ましいといえば、いえない事もないが。言い合いが終わるのを待っていたら、いつまでたっても金糸と紫暗の瞳を持つ最高僧の顔を拝む事はできない。
仕方ありませんね、と八戒は心の中で呟くと、悟空といがみ合っている悟浄の顔面を手のひらで、ぐぃっと押さえつけるとにっこり馴染み深い笑顔を悟空に向ける。
「で、悟空。三蔵に会いたいんですけれど。案内してもらえますか?」
「おっ、生臭ボーズ元気かっ?」
そうふたりが言った瞬間、それまでのはしゃぎ振りが嘘のように、悟空の表情は見る見るうちに沈んでいく。
「悟空?」
「誕生日に風邪ひくなんて、三蔵サマ日頃の行い悪すぎ」
「三蔵の悪口、言うんじゃねー!」
「あなたが人のこと、言える立場ですか、悟浄?」
何気ない一言を呟いた悟浄に、悟空の怒りの鉄拳と八戒の容赦ない嫌味が突き刺さる。
「おまえら・・・」
「あ、八戒。お酒そこ置いといて」
「あ、はい」
悟浄と共に庫裏に通された八戒は、悟空の言う通り持参した酒を棚の中に入れる。猿は、というと背負った籠の中から、山芋やら大根やらを取り出しては紙に包んで床の収納庫らしきところに仕舞い込み、更にその下からなにやら野草のようなものを取り出してきては、土瓶に水を汲んでそれを放り込む。
「悟空、それは?」
「ん、熱冷ましの薬草。近くに住んでるじっちゃんに、生えてるとこ教えてもらったんだ」
土瓶を弱火にかけながら、悟空がそう言う。どうやら薬草を煎じているらしい。
先程から見ていると、随分悟空が庫裏の様子になれている。いやたしかに、長安にいた時から庫裏とは充分過ぎる程馴染みの深い悟空ではあったが。
「あの、悟空?」
「なに?」
今度はもうひとつの鍋やら、米やら肉やらを用意して、何と包丁を握り締めた悟空に、八戒は恐る恐るといった態で訊ねてみる。
「ここに来てからの食事当番て、誰なんですか?」
「まっさか、猿が料理をする日がこようとはねぇ」
感慨深げな悟浄の言葉に、ヘタな相打ちは打てないものの、それでも八戒は心の中でしっかりと頷いてみせる。
『腹減ったー!』
が口癖で、食べ物の匂いには敏感だが、専ら食べる方専門だった悟空。お茶さえ満足に煎れられなかったあの子猿が、なんと成長したものか。
『え? 食事? 俺が作ってるよ?』
とさも当たり前に言われた時には流石の八戒も、我が耳を疑ったが。
「だって外食続きだとあんま三蔵の健康にも良くねーだろ? それに三蔵、精進料理とかは出来るけど、肉とか卵とかは料理できねーもん。でも、やっぱ肉や卵も食わねえと、元気になれねーじゃん」
だから俺が料理覚えて、三蔵に栄養あるモン食わせてやろうと思ったんだ。そう言いながら恥ずかしそうに、えへへ、と笑う悟空が本当に愛しかった。
どこまでも三蔵が大切で、三蔵をなによりも愛していて、三蔵が世界のすべての悟空。
金山寺に居を構える少し前に体調を崩して以来、暫く健康が優れなかった三蔵を心配しての事なのだろう。寺の庭に畑を作って、自家製の野菜を三蔵に食わせてんだ。とか、ニワトリも飼ってっから卵も毎日三蔵に産みたてのを食わせてやれるんだ、とか。
「そのせいかな? 三蔵最近、元気になってきたんだよ」
と、心から嬉しそうに言う悟空を見て、やっと三蔵も悟空も幸せになれたのだ、と八戒と悟浄は胸の奥があたたかくなる想いがした。
互いが血を吐くような苦しい年月を経て、ようやく『穏やかで平凡な幸せ』をふたりで得る事ができたのだろう。長い間ふたりを見守ってきただけに感慨深いものがある。
そしてそれは、今布団の上に上半身を起こして座り、悟空の作った鳥粥を黙々と食べている黄金の髪の最高僧をみても、よくわかる。あれけだけ神経質で、常にピリピリした雰囲気を纏わせていた三蔵。たしかに、急に愛想がよくなった訳でもない。仏頂面は相変わらずだし、口の悪さも健在だ。だが、身に纏う空気が格段穏やかになった。表情も、それに比例して落ち着いたものになっている。三蔵の心が安定した証拠だろう。
(もう悟空があなたのもとから去っていく、なんて不安に怯える事はないんですね)
もう無暗に悟空の気持ちを疑って、自分が傷つかない為にわざと自分から悟空を突き放す事もないのだろう。それは三蔵の中で、悟空の存在が、その意味が確かなものとなったからに違いない。
なら、もう僕達が心配するような事は、ありませんね。
三蔵の肩に羽織をかけ、甲斐甲斐しく世話をやく悟空と、「うるせぇな」と言いながらも、自分に差し伸べられた悟空の手を黙って受け取る三蔵を、面白可笑しく茶化していた悟浄が、久々にS&Wの餌食になるのを微笑ましく見守りながら、八戒は静かに手にした湯のみに口をつけた。
「さんぞ、寒くねえ?」
「ああ」
ここ数日陽が落ちると急速に冷え込む。悟空は三蔵の為に街まで買いにいった暖房器具で部屋を温めると、三蔵に生姜湯の入った湯飲みを手渡す。
「体、あったまるよ。本当は、八戒がもってきたお酒で卵酒つくろーかな、って思ったんだけど」
「てめぇ、あんないい酒で卵酒なんか作ってみろ。コロスぞ」
「ん。そー言うと思ったから、止めたけどさ」
悟空は相変わらず、嬉々として三蔵の世話をやいている。本当に三蔵の役に立てるという事が、そして口には決して出さないがそんな悟空の気持ちを三蔵が受け入れてくれている事が、底嬉しいらしい。八戒もあの後悟浄に言っていたが、本当に見ている方まで幸せな気分になりそうな笑顔だ。
「今日はさ、八戒や悟浄来て、楽しかったな」
あまり使わない離れに一晩泊まって明日には帰る、という旧友を思い浮かべて、悟空は嬉しそうに三蔵の顔を覗き込む。返ってくる答えは、判りきっているけれど。
「うるせえだけだ」
湯のみに口をつけながら、三蔵がぼそり、と呟く。そんな三蔵に曖昧に笑って答えた悟空が、残念そうにぼやいてみせる。
「三蔵風邪引いてなかったら、バースディ・パーティしたのにな」
「いらん。鬱陶しい」
切って捨てるような三蔵の物言いに、悟空は今度は苦笑する。長安にいた頃のお祭り騒ぎのような三蔵の生誕祭を、三蔵がいつも忌々しく思っていたのを悟空は知っているから。
「あんな寺院にいた頃みてーに、大げさなヤツじゃねーよ。旅してた頃、誰かの誕生日がくるとさ。八戒がご馳走作ってくれてさ」
朝までどんちゃん騒ぎをして、口には出さないけれど、親にすら望まれなかった仲間の誕生を、それでも心から『生まれてきてくれて、ありがとう』と感謝し、祝福した。
折角ふたりが来てくれたのだから、あんな風に三蔵の誕生日を、祝いたかった。けれど、愛する人からの返事は、やはり素っ気無いもので。
「うるせぇだけだろーが」
別に誰が祝ってくれなくてもいい。自分の傍に悟空がいて、ヤツが『三蔵が生まれた事』を喜んでいれば。この日があったからこそ、自分と三蔵が出会う事ができたのだ、と嬉しそうに笑ってくれれば。それで充分なのだから。
「そういえば、三蔵へのプレゼント、用意できなかった」
口を尖らせて悔しそうに言う、猿。ここ数日臥せっていた三蔵の看病に追われて、プレゼントを用意する暇もなかったのだ。
「別にいらん」
「でもさぁ」
三蔵とふたりで暮らし始めて最初の三蔵の誕生日。なにも記念に残るような事ができないのは、すっげー勿体無い気がする。そうひとりごちる悟空を三蔵は、黙ってみつめる。
金山寺に移り住んでから、三蔵に不自由な想いはさせたくない、今度こそ三蔵の役に立つ男になるんだ! と宣言してからの、実際の悟空の働き振りは流石の三蔵も目を見開いた。旅に出る前のただ三蔵に扶養されていただけの小猿とは、まるで別人だ。たしかに、西への旅から戻ってからの悟空も充分大人になったが。
三蔵の為にと畑を耕し、どこぞの農婦から料理を覚え。寺の修復など、日曜大工の類いも率先してこなす。暇ができれば、街に出て短期の仕事を請け負ってくるらしい。長安の頃と違って余計な坊主共がいない分、三蔵の為に動きやすいのもたしかなのだろうが。
悟空自身、とにかく三蔵がここで穏やかに静かに暮らしていけることを願って、自分にできる事なら、なんでもやりたいのだ。そして以前ならば、「守って欲しくなんかねえ」と意地を張っていた三蔵も、最近やっと判ってきた。悟空に一方的に守られ、与えられている訳ではないのだと。三蔵もまた、その存在そのものによって、悟空に力を与え、悟空の心を守っているのだと。
三蔵が傍にいてくれる、そして自分を受け入れてくれる。それがあの猿にとっては、なによりも必要な事なのだから。そして、それを得られれば、あの猿はどんな困難さえも乗り越えてみせるだろう。それが三蔵の為ならば。
ヘタなプライドなんか捨てて、互いが欠けているところを、与え合って、補っていけばいい。所詮どんな強がりを言っても、自分は強くはないのだから。目を逸らす事もできない程、自分の『弱さ』を知ってしまったから。
(今更、強がっているのも、面倒くせぇ)
長い葛藤の末、やっとここまで辿り着いた。そう思い切った途端、驚く程肩の力が抜けて、もっと楽に呼吸できるようになった。存在全てを鎧で被って『強くならなくては』とひたすら前を向いて歩いていた自分は、一体なんだったのだろう。こんな他人にとっては当たり前の事を知るために、どれだけ自分は悟空を傷つけてきた事だろう。
そんな三蔵の心も知らずに、悟空は精悍さを増した、それでもどこか幼げに見える顔で必死に三蔵に言い募る。
「なあ、なんか三蔵の欲しいもの。三蔵が元気になったら、俺、すぐ用意すっからさ」
あれだけ自分に与え続けて、まだ足りないというのか、この猿は。
三蔵は呆れながらも、それでも心があたたかくなるのを感じる。別に金で買えるもので、欲しいモンなんかない。今の生活で、充分満足だ。切望した『永遠』も、これからふたりで日々を重ねて得るものなのだ、と気づいたから。だから、これと言って欲しモノは・・・。
そう思った途端に、三蔵は一つ欲しいものが浮かんだ。
「さんぞ?」
顔を伏せて考え込む三蔵を、気分が悪くなったのかと心配した悟空が更に深く最愛の人の顔を覗き込んだ途端。悟空の唇に、あたたかく柔らかいものが押し当てられる。
「さ、さんぞっ!?」
自分の唇に触れたものが、三蔵の唇だと遅まきながら気づいた猿が素っ頓狂な声をあげる。
「うるせえ」
悟空が声を上げた途端に唇が離れたのに不機嫌になった三蔵は、押し殺した声で一言そう呟くと、更に自分の唇を悟空に強く押し付け舌先で、猿の唇を割ろうとする。
(え? ええっ? マジ―――っ!?)
三蔵からのキス事態、稀な事だというのに、しかも本格的なキスなんて。いままではどんなにせがんでも、触れるだけのキスが精一杯だったのに。
(そ、そんな、今日は三蔵の誕生日なのに! 俺がこんなプレゼントもらって、マジでいい訳―――!?)
驚きと喜びに半ばパニック状態の悟空だが。それでも三蔵の舌が忍び込んで、たどたどしく自分の口腔を愛撫し始めると悟空の決して長いとはいえない理性が、ぷつり、と切れかかる。
(あぁぁぁ! 三蔵、病人だって――! 安静にしねーといけないんだよぉぉ!)
滅多にない愛する人からのお誘いに揺らぐ本能と、三蔵の体を気遣う理性の間で暫し戦う悟空であったが。やがて息苦しさに唇を離した三蔵の濡れた瞳に、どこかでぶちりっ、と音がした。
「さんぞぉ!」
今度は悟空が三蔵の唇をきつく貪る。大分よくなってきたとはいえ、まだ少し熱のある三蔵の唇も口腔も、いつもよりも熱い。それが刺激となって、更に悟空の熱を煽る。
「さんぞ、いいの? 風邪引いてんのに」
長いくちづけの末、やっと解放した三蔵に悟空は小さく訊ねる。
「・・・今更ダメだって言ったって、てめぇは止まんねーだろうが」
それに。
「欲しいモノ言えって言ったのは、てめぇだろうが。この馬鹿猿」
ふぃっと顔を逸らせた三蔵。けれど、その頬もうなじも真っ赤に染まっているのは、一目瞭然。
そう。欲しいモノといったら、この猿だけ。いつもあたたかく自分を包み込み、いつしかこんなにも自分を変えてしまった、自分だけの猿。他に、欲しいものはない。
流石に普段は素面でそんな事は言えないけれど。今日は少し熱にうかされているから。そして今日は欲しいモノを自分から望んでもいい日だから。だから、そんな願いを口にしてもいいかもしれない。
三蔵は口づけでぼんやりとしてしまった頭で、そう考える。
「俺? 欲しいって言ってくれんのっ!?」
そんな三蔵の言葉に、悟空の顔面いっぱいに喜色が浮かぶ。普段は流石にそんな事言ってくれないのに。やっぱり照れ屋で、天邪鬼は変わらない三蔵。
だから、だから。とっても嬉しい! 愛しくて、三蔵が愛し過ぎて、どうにかなってしまいそうだ!
「欲しいなら、いくらでもあげる。俺はいつでも、三蔵のモンだもん」
だから、今日はいっぱい、いっぱい優しく愛して、三蔵が生を受けた事を記念するこの日を祝いたい。
生まれてきてくれて、ありがとう、と。自分と出会ってくれてありがとう、という感謝の気持ちを、その白い肌を辿る指にも、唇にも、三蔵に触れる全てに想いを込めて伝えたい。
「ありがと、三蔵」
いま、この時を一緒に生きてくれて。
「あいしてる」
言葉では表しきれない想いを、あえてこの言葉ひとつに込めて悟空は三蔵の白い額に刻まれた赤い印にくちづける。「・・・わかってる」
三蔵の細い腕が、悟空の広い背中に回る。拾った時はあんなにも小さかった小猿。いつの間にか、こんなにデカくなったけど。三蔵を見つめる金瞳の熱っぽさだけは、いつまでたっても変わらない。
「三蔵は?」
悟空の低い声が耳元に響く。その瞬間、ぞくり、と身体の奥から何かが目覚める。
「三蔵は、俺の事愛してる?」
耳朶を甘噛みしながら、そう聞いてくる悟空に、三蔵は早くも上がってくる息を整えようとしながら、苦しげに呟く。
「俺の口から聞きたけりゃ・・・」
夜着の合せ目から忍び込んだ、悟空の、三蔵の肌を探る指がぴたり、と止まる。
「・・・言わせてみろよ」
消え入りそうなか細い声を確かに聴きとめて、悟空は今度こそ満面のこれ以上ない程のはちきれそうな笑顔を浮かべて、きつく愛する人の身体を抱き締めた。
愛する人に祝福を。彼の存在の全てに、感謝を込めて。
おわり