雨の傷跡
窓ガラスに横なぐりの雨が、バラバラと音をたてて弾ける。
雨の夜は嫌いだ・・・。
悟空は、窓辺に座ってぼんやりと外を眺めている三蔵をみつめながら思う。・・・いや、視線は外に向いているが、その瞳はおそらく何も映していないのだろう。
こんな時の三蔵は、決して自分を見てはくれない。今三蔵が見ているものは、失った過去の幻影なのだ。三蔵の心を占めるのは彼の亡き師とそして・・・、あの六道という男。
三蔵の師匠と兄弟子。悟空の知らない三蔵の過去を知る二人。三蔵が誰よりも信頼していたであろう二人。
彼らはその死によって、その存在をいっそう深く三蔵の心に刻み込んだように悟空には思えた。
「さんぞー」
「・・・うるせえ」
「まだ、なんにも言ってねえじゃん」
「てめぇは、口に出さなくても煩ぇんだよ」
それは、いつも交わす些細なやりとりのはずだった。それなのに今日にかぎって、何気ない三蔵の言葉が悟空の琴線にふれる。
「・・・ずりぃよ」
「煩ぇっつてるだろが」
「ずりぃよっ!俺はさんぞーに何も隠し事なんかしてねぇし、俺の心の声はさんぞーには届くのに。けど、俺にはさんぞーが何考えてんのかちっともわかんねぇもんっ!!」
いつも心に引っかかっていた。何故三蔵は、自分に身体を許してくれたのだろう。
自分を受け入れてくれたのだと、自分を求めてくれたのだと、そう思いたい。だが身体を重ねている時だけは、心が通い合ったかのような錯覚を覚えても、朝になれば、あれ程悟空の腕の中で安らかな寝顔をみせたのが嘘のように。
どこまでいっても、保護者と被保護者。もしくは飼い主とペットといった姿勢を、決して崩そうとはしない。
三蔵にとって、自分は一体なんなのだろう・・・。
「ごくっ・・・、てめぇ、離せっ!!」
いきなり自分の腕を押さえ込んで圧し掛かってくる悟空に、三蔵は何とか抵抗を試みるが所詮、力で悟空にかなうはずがない。
「この猿、殺されてえかっ!!」
そのまま押し倒された三蔵は、体温を奪われそうな床の冷たさに身震いした。悟空は自分を押しのけようとする三蔵の両腕を、やすやすと片手で床に括り付ける。
あからさまに見せつけられた力の差と、普段は自分に絶対服従の小猿の突然の反抗振りに三蔵は紫暗の瞳に強い怒りの色を込めて、悟空を睨み付ける。
「てめっ、俺の言う事が聞けねえのかっ。この手を離・・・っ」
次の瞬間、三蔵の身体はびくりと跳ね上がった。悟空が三蔵の首筋に顔を埋め、そっと舌を這わせたのである。嫌悪なのか快感なのか自分でも判らぬ、濡れた感触から逃れようと三蔵はしきりに頭を振るが、そんな抵抗さえ悟空は三蔵の顎を空いた片手で押さえ、唇を奪う事で封じてしまう。
「・・・んっ、やめ・・・っ」
三蔵の拒絶の言葉も飲み込んで、悟空は更に深く唇を重ねる。思いのままに三蔵の口腔を翻弄した悟空の右手が、三蔵の法衣の襟元に滑り込んで彼の素肌をさがそうとした時・・・。
ふっと三蔵の身体から力が抜けた。不信に思った悟空が顔をあげると・・・。
愛する人の紫暗の瞳が。情欲に濡れているのでもなく、また悟空への怒りを滲ませているのでもなく。ただ、真っ直ぐに悟空をみつめていた。
「さ、さんぞー・・・」
「満足か?」
「え?」
「力で俺の身体を征服して、それでお前は満足か?」
決して激しい口調ではなく静かに問い掛ける三蔵に、悟空の顔からさっと血の気が引いた。自分の下で臆する事なくじっとみつめてくる三蔵の瞳と、声のあまりの冷静さに、悟空はやっと自分が何をしでかそうとしたのかを悟って、慌てて三蔵を開放した。
「ご、ごめん、さんぞー」
「・・・・」
三蔵は無言でゆっくりと身体を起こすと、悟空に乱された法衣の胸元をそっと整える。そんな三蔵の一連の動作を凍りついた表情で見つめながら、瞳の奥がじわっと熱くなるのを感じた。
腕力で三蔵をねじ伏せる事は、絶対しないと思っていたのに。
人間の三蔵は自分よりもずっと力がないから。それを判っていて力で三蔵を奪うのは、三蔵の心も身体も傷つけるだけだから。 絶対に三蔵を守ってみせると、何者にも三蔵を傷つけさせないとずっとそう思っていたはずなのに・・・。
俺がさんぞー、傷つけちゃた・・・・。
三蔵の横に座り込んだまま項垂れた悟空の頬を、大粒の涙がぽろぽろと滑り落ちる。
「お前には・・・」
「え?」
「お前には、俺の声が聞こえねえのか?」
「・・・さ、さんぞー?」
「お前は俺が誰にでも気安く触れさせると、そう思っているのか?」
「・・・っ」
三蔵の言葉に悟空は言葉を詰まらせる。
三蔵は人に触れられるのが嫌いだから、そんな誰にでも触れさせるなんて事はないだろうけど。自分はペットだから。だから三蔵も必要以上に警戒はしない。
こんな関係になる前、隙をみつけては三蔵に抱きついた時もハリセンを食らう事はあっても嫌悪感をもって拒絶される事ななかった。
「仕方ねーから」
三蔵の口癖。だから仕方ねーから、ペットとの過剰スキンシップだと思って・・・。三蔵が自分に肌をゆるしてくれたのも、案外それだけの事なのかもしれない。
「おいっ!」
自分の思考に囚われていた悟空は、三蔵の声にはっと顔を上げた。するとさっきまでの静かな瞳が嘘だったかのような、怒りに燃える三蔵の視線が悟空に向けられていた。
「さ、さんぞー・・・」
「てめぇは、俺をそこまで安っぽくみていやがったのか!?」
「・・・え?」
「俺が『仕方ねーから』で、てめぇに何でもかんでもゆるしたってそう言いやがるのか!?」
「さんぞー、何でそれ・・・」
「てめぇは黙っていてもうるせえんだって、言ってんだろーが!!おい、どうなんだ!!」
三蔵の本気の怒りを感じて悟空は身を竦める。
「だって・・・俺、馬鹿だから・・・」
「・・・・」
「悟浄とか八戒とか、みんなさんぞーの事好きで。なのに、なんでさんぞーが俺だけにあんな事ゆるしてくれんのか、わかんねーんだもん」
「・・・・」
「俺役立たずだし、甘えてばっかだし、馬鹿だからさんぞーが何考えてんのか判んないし、それに・・・さんぞー、雨の日は俺を見てくんなくて・・・」
しゃくりあげる悟空を、射るようにみつめていた三蔵の鋭い瞳が、ふっと和らいだ。
「・・・ほんとーに、馬鹿だな」
「さんぞー・・・」
本当に馬鹿だ。悟空も、俺も。
心を伝える術をしらない自分。『好き』と言う感情のままにただ走り、迸る自分の想いに振り回されている悟空。
「てめぇだから・・・ゆるしたんだろうが」
「さんぞ・・・」
「ほかに理由なんて、ねぇんだよ」
自分が拾った小猿。いつも騒々しくて、うざったくて。どんなに邪険にしても、どんなに冷たくしても、それでも自分の後をついてきた。いつでも悟空は真っ直ぐに大きな金色の瞳で、自分だけをみつめていた。
子供の頃から三蔵とのスキンシップを好む悟空を鬱陶しいと思いながらも、本気で抱きついてくる腕を拒んだ事はなかった。他人の体温なんて気色悪いだけだと思っていたのに、悟空の温もりは何故だか落ち着いた。
無意識のうちに甘えていたのは、自分の方だったのかもしれない。言葉にしなくては、伝わらない想いもあるのに・・・。 「さんぞー・・・?」
思いもしなかった三蔵の言葉に、悟空はまぬけ面をさらして最愛の人の顔をぼんやりとみつめる。
『てめぇだから、ゆるしたんだろうが』
それは三蔵が悟空を受け入れてくれていたと、そういう事なのだろうか。自分が自惚れていただけじゃなくて。求めてくる悟空に「仕方なく」ゆるしてくれたんじゃなくて。少しでも自分を必要としてくれていたから・・・。
「さんぞー・・・」
悟空の顔が涙でぐちゃぐちゃになる。
「みっともねぇ面してんじゃねーよ。幾つになったんだよ、てめぇは」
「だって・・・」
それ以上は言葉にならなくて、悟空は三蔵にしがみつく。 言葉の足りない三蔵の想いを全て伝えてくれた、大切な一言。悟空は何度も何度も胸の中で噛みしめる。
「てめぇは・・・いつでも俺の側にいるんだろうが・・・」
「うん」
「お師匠さま達は・・・もういねえ。せめて雨の日くらいは・・・」
言いかけて、言葉を切った三蔵を悟空はそっと壊れ物のように抱きしめた。
日頃は心の奥底に仕舞い込んでいる、亡き人達の記憶。せめて彼らを喪った雨の日だけは、彼らを追想してもいいだろう。思い出せば崩れそうになる時もあるけれど、それでも自分の側には悟空がいるから・・・。その気配を感じるから・・・。
やっと伝わってきた三蔵の『声』。
三蔵の『声』が聞こえなかったんじゃない。聞こうとしなかっただけなんだ。自分が三蔵を呼ぶのに必死で。三蔵の『声』はこんなにはっきりと伝わってくるのに・・・。
「さんぞー、ごめんな」
「・・・何に対してあやまってるんだ」
「全部」
三蔵を力で奪おうとした事も、三蔵の心を疑った事も、そして三蔵の『声』に耳を傾けなかった事も。
「全部、ごめんな」
「・・・馬鹿猿」
三蔵の腕がそっと悟空の背中に回る。
「・・・うん、俺馬鹿だから・・・」
「・・・今度こんなマネしたら、コロスぞ」
「・・・うん」
「それから・・・」
三蔵は、悟空の腕の中でそっと呟く。
「俺にあんな事、二度と言わせんなよ」
言葉にしなければ、伝わらない想いもあるけれど・・・。でも、まだ自分からはそう何度も言えない。
勝手な言い分だとわかってはいるが。 自分で俺の『声』を聞きやがれ。
悟空は今度こそ三蔵の『声』を確かに受け取って、愛する人の金糸の髪にそっと小さくくちづける。
二人の心の中に振っていた雨も、まもなく上がるだろう。
おわり